@「論語」とは「常識の書」とある。生きていく為の参考書とでも言える「論語」の中で見つけた「友達の選び方」。 それは3つ:1、自分より劣ったものを友達にするな 2、自分より上である人を選ぶべき(知識・経験・物事の見方) 3、口だけ達者なものを友にするな であると言う。 さらに人間的向上心の3つ、1、教養文学に親しみ、2、礼儀作法を学び身につけ、3、物事の深みを理解すること。 さらに苦労人晩年孔子の3つの心得、1、勝手な心を持たず 2、無理押しをせず 3、執着せず、我を張らない。 人生の基本はこれだと思うことがこの「論語」には集約されている。 一見、当たり前のことが多いが中々行動にできない、人とあそう言うものかと悟。(人を呪わば穴二つ)
『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』石 平
- 論語はすなわち儒教のことである―日本人の多くにとっての「常識」であろう。ところが、実はそうではない。子供のころ、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接した著者は、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く。 御用教学・儒教の成立と悪用される孔子、朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を重ねた果てに著者がたどり着いた答えは、なんと「論語は儒教ではない」というものだった。曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書。
- 「論語」とは孔子という智慧者が語る常識的な人生論、処世術である。「五経」の経典を作り出した儒学とは全く違った理論体系だった。「論語」、人はどのように自分自身を高めていくべきか、人は社会の中で生きていくためにどのようにして人間関係を築くべきなのか、人は穏やかで豊かな人生を送っていくためにどうすべきかの「常識の書」である。「愛」道徳観の根底、思いやり「礼の心」である。
- 「儒学」は戦国時代に行きた孟子の「性善説」の体系で中央主権性の国家権力とその頂点に立つ皇帝を正当化する考え方「王道主義」。「五経」は孔子の名を盗用する形で作り上げた経典である。
- 朱熹の「朱子学」「礼教」は中国明清朝時代5百年続いた。その結果女性は悲惨な時代であった。女性は子孫存続の道具であり、夫が亡くなった場合の選択は自殺、もしくは子孫子育てのみで「殉節」「守節」を貫くことが強いられた。その清王朝時代の260余年の間に自殺数5百から6百万人とも言われた。中国と朝鮮がこの朱子学と礼教(人間性抑圧と欺瞞)の基本によって支配された。「科挙」制度に採用され長期存続した。
- 江戸時代、朱子学は輸入されたが日本の女性の地位は他の東洋諸国とは道徳的に洗練されており「礼教」は採用されなかった。伊藤仁斎が「論語」との違いを強調し「悪の学問」を止めた。
- 「論語」
- 「子の日わく、君子は器ならず」(教養人は一技、一芸の人ではない=広い教養を身につけて広く能力を発揮すべき)生きていくための手段(専門技術を身につける)であって、目的ではない。そのためには様々な問題意識を持ち、歴史や芸術や大自然の領域にも興味を持ち人々と多く交流し、多彩な社会生活の体験が必要
- 「子の日わく、詩に興こり、礼に立ち、楽に成る」(人間の教養は詩によって奮い立ち、礼によって安定し、音楽によって完成する)
- 自分の信ずる道を歩めばよい
- 「論語が教える友達の選び方」
- 自分より劣ったものを友達にするな
- 自分より上である人を選ぶべき(知識・経験・見方)
- 口だけ達者なものを友にするな
- 「孔子の波乱万丈の生涯」
- 下級武士の不倫関係で生まれた私生児、3歳で父を亡くし貧しい環境で母親に育てられた。倉庫番、飼育係りなどの仕事は身分が低いためであって、「多能」な仕事をこなした。40代あたりから学問での門人が増え始め52歳で代官、53歳で魯の君主の補佐役。54歳で司法大臣、権力闘争に敗れ諸国を放浪、69歳に魯に戻り教育に専念。弟子3千人を抱え74歳で没。苦労人「勝手な心を持たず、無理押しをせず、執着せず、我を張らない」(意なく、必なく、固なく、我なし)ことに賢明だった。