シ-ナさんにしては珍しいテ-マだと思って4月下旬リリ-ス早々手に取ってみた。
方々を旅して見聞きした様々な国や民族の葬送の様式(土葬、火葬、風葬、水葬、鳥葬など)が語られている。
それは、それぞれの国や民族の死生観の違いによって葬送の様式がそれぞれに異なっているというものである。
シ-ナさん独自の死生観が説得力ある言葉で語られているのかと期待して読み進んだが、その期待は見事に裏切られた。
僕の先入観が強すぎたためであろうか、この本のタイトルと内容の違いに少々違和感を覚えた次第である。
まあ、紀行文のひとつと言えば言えなくもないのだけれど、、、、、。
先週、僕の近しい人が神に召されました。
突然の訃報に少なからず混乱もしました。
彼女はプロテスタントゆえに、彼女と親しい信徒の方々や近しい人たちとともに何曲かの讃美歌とともに神の御国(みくに)に送られました。
司祭は死生観を平易な言葉で語られ、別れは悲しいことではあるが悩みや苦しみのない神の御国に行くことは祝福すべきことでもあると言われました。
お別れの会は終始和やかに、彼女の生前を讃え、神の御国に行かれることを祝福し、いずれまた神の御国で再会できることを心から信じていると、、、。
あぁ、これが信仰というものの一つの形なのだろうかと、信仰心の薄い僕はそんなことを感じ、垣間見たひとときでもありました。
幾たびかキリスト教の葬送に立ち会っていつも思うことは、あぁ、僕も最期はこんな風に送ってもらえたらいいなあということでした。
仏葬のように、意味も良く分からない導師の読経を聞きながらあの世に送るのも送られるのも何故か空しさを感じてしまうのです。
さて、我ら日本人の殆どは仏教徒であろうと思います。
しかし、殆どは信仰心篤い信徒とはとても恥ずかしくて言えるものではなく、ただ葬式で読経してもらうだけの檀家にすぎません。
自分の菩提寺が禅宗であれ真言宗であれ、その教義すら知らない日本人が殆どであろうし坊さんも説法ひとつ唱えてもくれません。
キリスト教徒は聖書を、イスラム教徒はコ-ランを、絶えず読んで学び、神や教義に準じて生きているのでしょうか?
様々な悩みを抱え、神に救いを求め、信徒同士が姉妹のように親密な絆で結ばれ、お互いに心の支えになっているのでしょうか?
それに引き替え、なんちゃって仏教徒の我らは何を信仰の対象とし、どんな教義を心の支えとして生きているのでしょうか?
憲法もまた然り、我らは日本人でありながら国の最高規範である日本国憲法のなんたるかを深く知らぬままでいます。
学校でも本気で理解させようとせず、我らも本気で学ばず、掘り下げて知ろうとしてこなかった報いなのかもしれません。
信仰心も薄く、憲法さえも深く知らず、
それでも我らは、高い道徳心を持ち、常識をわきまえ、法(犯罪)を犯すこともせず、民族同士で争うこともせず、経済発展を遂げてきました。
信仰心の篤い国々の人たちから見れば、これは摩訶不思議な国民性と映るでしょうし、我ら自身が客観的に見ても同じことが言えるのかもしれません。
あぁ、分からないことだらけです。
まだまだ学ぶべきことがたくさんありますねえ!