syuの日記・気まま旅

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掛川城と法多山

2011-02-15 | 気まま旅
掛川市は、県中央西部に位置し、太田川支流逆川流域を占める商工業都市。東経138度線が通り日本列島の真ん中になる。
掛川の名は東海道の「懸川宿」地域の中心地であった。江戸時代掛川藩が置かれ城下町となった、
今でも二宮尊徳の報徳運動が盛んで、生涯学習都市宣言、地球美感徳育都市宣言を1990年行っている。


   

掛川城は戦国時代の文明年間(1469~86)、駿河守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として、重臣朝比奈泰煕に築かせたといわれている。
桶狭間の戦(1560)で今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568)義元の子氏真は武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠った。
翌年、徳川家康は、掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させた。
家康領有後、重臣石川家成が入城し、甲斐からの武田氏侵攻の防御の拠点となった。

                                          土塁
  

天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊がはいった。
一豊は多くの戦乱により痛んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて天守閣をつくった。

貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは「東海の名城」と謳れた、しかし、嘉永7年(1854)大地震により天守閣など大半が損壊。
御殿、太鼓櫓、蕗ふきの門などの一部を除き、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年(1869)廃城となる。
その後、天守台や本丸跡など一帯は公園とされてきたが、掛川市民の熱意と努力が実を結び、天守閣は平成6年140年ぶりに木造により再建され、
ふたたび美しい姿を現した。




掛川城下 まっすぐな道




昼食をと偶然入った鰻屋さん、掛川では一番という「うな専」隣に稲荷神社。食事に訪れる人たちがみなお土産を頼んで帰る。
地元でも評判良いらしい。
鰻は良く焼かれ、たれもちょうどよい。これは「竹」¥1650
  




「法多山」は、寺号を尊永寺、高野山真言宗に属し本尊正観世音菩薩は俗に厄除観音として知られている。
神亀2年(725)聖武天皇の勅命を受けた行基上人は大悲観音応臨の聖地をこの地に探し求め、自ら刻んだ本尊観世音菩薩を安置したのが縁起といわれています。

本尊の霊徳は遠く京都に及び、白河、後白河天皇の勅願あつく定額寺の列に加えられていた。
その後今川、豊臣、徳川等武将の信仰を得て特に慶長7年家康公五万石の格式となり、一山十ニ坊の法燈が栄えたが、明治維新に朱印地返還、
十ニ坊を廃して総号尊永寺と改め今日に至る。

縁日限定「茶だんご」の販売!ご縁日には通常の厄除けだんごの他に、縁日限定の茶だんごが販売される。
地元産の袋井茶が生地に練り込まれ、ほのかな茶の香が大変美味。

参拝者多い
       

砂利道の参道、15分ほど歩く。帰りは山道を下る。カップルが多い。


休み休み階段を上ると本堂、四季折々の装いを見せる法多山、年間を通じ様々な祭事がある。
  



次回は磐田へ。