東名磐田インターから10分ほどの所に「遠江国分寺跡」がある。
ここは1951(昭和26)年に全国の国分寺調査に先がけて発掘調査が行われ、1952(昭和27)年、国指定の特別史跡(国宝と同格)となった。
この結果、遠江国分寺の中心となる箇所には、南より南大門、中門、金堂、講堂が一列に並び、金堂と中門をめぐる回廊の西外側に塔があることがわかった。
現在それぞれ表示され広い跡地が復元されている。
1968(昭和43)年~1970(昭和45)年にかけて整備され、往時の建物の基壇などが復元された。
近年これらの建物を取り囲んでいる東西180m南北253mの範囲に垣がめぐらされていることもわかってきた。(現地説明板参考)

聖武天皇は、741(天平13)年に、仏の力を借りて飢饉・疫病などから国を守ろうとして、全国に国分寺・国分尼寺を建てる命令を下し、
国分寺・国分尼寺は、全国60数か所に建てられた。

国分寺に入るとすぐ右に、遠江49薬師霊場1番札所となっている古い建物があり、祭りの旗などが風になびき、その奥に、遠江国分寺跡がある。
南側には広い草地が広がる。通りの反対側に府八幡宮があり、20分ほどで磐田駅に至る。

「府八幡宮」国分寺跡の道路を隔てた向かい側にある。
府八幡宮は、天平年間(729~748年)に遠江国司であった桜井王が、 国府の守護として勧請たと伝えられている。
境内の建物の多くが、江戸時代に建造されたもの、 寛永12年(1635年)に建立された楼門は静岡県の文化財に、中門・本殿・拝殿・幣殿は市
の文化財に指定されている。
また、明治元年(1868年)に廃止された神宮寺の築地塀も一部残っています。 社宝として瑞花鳳鸞八稜鏡や、平安時代の作である僧形八幡像、女神像がある。
「府八幡宮楼門」

この日本殿では祈祷がされていた。

次回は浜松へ。
ここは1951(昭和26)年に全国の国分寺調査に先がけて発掘調査が行われ、1952(昭和27)年、国指定の特別史跡(国宝と同格)となった。
この結果、遠江国分寺の中心となる箇所には、南より南大門、中門、金堂、講堂が一列に並び、金堂と中門をめぐる回廊の西外側に塔があることがわかった。
現在それぞれ表示され広い跡地が復元されている。
1968(昭和43)年~1970(昭和45)年にかけて整備され、往時の建物の基壇などが復元された。
近年これらの建物を取り囲んでいる東西180m南北253mの範囲に垣がめぐらされていることもわかってきた。(現地説明板参考)


聖武天皇は、741(天平13)年に、仏の力を借りて飢饉・疫病などから国を守ろうとして、全国に国分寺・国分尼寺を建てる命令を下し、
国分寺・国分尼寺は、全国60数か所に建てられた。



国分寺に入るとすぐ右に、遠江49薬師霊場1番札所となっている古い建物があり、祭りの旗などが風になびき、その奥に、遠江国分寺跡がある。
南側には広い草地が広がる。通りの反対側に府八幡宮があり、20分ほどで磐田駅に至る。


「府八幡宮」国分寺跡の道路を隔てた向かい側にある。
府八幡宮は、天平年間(729~748年)に遠江国司であった桜井王が、 国府の守護として勧請たと伝えられている。
境内の建物の多くが、江戸時代に建造されたもの、 寛永12年(1635年)に建立された楼門は静岡県の文化財に、中門・本殿・拝殿・幣殿は市
の文化財に指定されている。
また、明治元年(1868年)に廃止された神宮寺の築地塀も一部残っています。 社宝として瑞花鳳鸞八稜鏡や、平安時代の作である僧形八幡像、女神像がある。
「府八幡宮楼門」


この日本殿では祈祷がされていた。


次回は浜松へ。