syuの日記・気まま旅

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衣笠山城跡 大善寺

2013-01-04 | 気まま旅
三浦半島の続きです。

衣笠城主 三浦義明 1092-1180 桓武天皇の子孫、相模国三浦郡、大介と称していた。頼朝の挙兵の際、長子の三浦義純らを参加させたが、大雨の為渡河できず、
「石橋山の戦い」で頼朝が敗れたことを知り途中で「衣笠城」に引き帰している。
当時の平家方は、畠山重忠、河越重頼、江戸重長等の軍勢は、衣笠城を攻められ、落城必至、義明は、一族を房総へ脱出させ「頼朝」に従わせ、一人踏みとどまり
最期を遂げている。一族老命まで頼朝に捧げると語ったという。源頼朝は、三浦義明の為、仏殿を建てたという。

三浦義村 ~1239 父は義澄に従って各地転戦、頼朝死後、梶原景時追放事件では、結城氏中心人物で、以来北条時政、子義時に協力した。
源義朝暗殺事件の黒幕とも言われている。
千葉胤綱を義村は、「下総の犬」と罵し、胤綱は「三浦の犬は、友を食う」と云い返したという。子、泰村の時で、三浦一族は滅亡している。

衣笠城大善寺付近の畑に早咲きの桜






鎌倉幕府創設前夜の治承四年、伊豆に挙兵した源頼朝に呼応して衣笠城に兵を挙げた三浦大介義明。畠山重忠をはじめとする軍勢に攻め寄せられ、
老齢の義明は一族を衣笠城から落とし、ひとりこの城に残り壮烈な自刃を遂げる。享年八十九歳。
逃れた嫡子の義澄は江戸湾で北条時政軍と合流、安房に逃れた頼朝に合流し、上総介広常、千葉介常胤らとともに鎌倉幕府創設に多大な寄与をした。
義明は頼朝に大きな期待をかけながらも、その天下を眼にすることなく、そして「武家による、武家のための政権」の世を見ることなく死んだ。
三浦氏は頼朝の政権下で重く用いられるが、やがて繰り返し悲劇が訪れる。幕府内部の権力争いが表面化した和田義盛の乱では同族が血で血を洗う争いとなり、
「三浦が者は友をも喰らふ」と嘲笑され、「宝治合戦」で執権北条時頼の専制強化のために一族の殆どが滅亡、三浦の家名を嗣いだ庶流の佐原氏も
やがて押し寄せる戦国の波に翻弄されて、相模新井城で北条早雲に攻め滅ぼされる。そんな三浦一族の栄光と苦難の道の出発点がここ、衣笠城です。

城跡は地勢的には三浦半島の内陸部に位置する標高130mほどの丘陵。周囲の谷津の湿地、河川を天然の外堀とした山城だが、かつては久里浜周辺の海が深く
入り込み、海とも繋がりを持った城であったとともに、馬蹄形の丘陵全体を取り込んだ、規模の大きい城郭でもあったよう。
この鎌倉期前後の山城は、城といってもとくに大きな普請を行うわけではなく、こうした天然の要害を利用しただけのものが多かったようで、
「城」という概念も、施設や建物だけではなく、天嶮の山に籠る城というものだった。














大善寺