芝公園は、増上寺の領地を1873年、公園として開園。
都内でも上野恩賜公園などと並ぶ古い公園。戦後の政教分離の考えにより、増上寺の敷地とは独立して宗教色のない「都立公園」として
新たに遊具や運動施設などが設けられ、整備された。そのため、現在の公園の敷地は増上寺を取り囲むような形状になっている。
「都立芝公園」は、1945年(昭和20年) 戦災により、増上寺境内の五重塔と徳川家霊廟などほとんどが焼失。 1947年 芝区が赤坂区・麻布区と合併し、新たに港区が成立。「東京都港区芝公園」となる。
1958年 東京タワーが芝公園20号地に完成。 1977年 芝栄町の一部を芝公園三丁目・芝公園四丁目に編入。現在に。
芝公園内
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「芝東照宮」は、祭神 徳川家康。神体 徳川家康寿像。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。
元来は増上寺内の社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城に於いて祭祀していた。
1616年 家康は、死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。芝東照宮の起源である。
3代将軍家光により1633年に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となり、1641年には移転改築がなされた。
駿府城より移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整ったという。
明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となり、1873年郷社に列し、本殿は、1915年、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定。
しかし、1945年5月の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失した。
徳川2代将軍 秀忠公と正妻お江様も参拝の幟が 芝公園内に
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文化財は、神木の大イチョウ 木造徳川家康坐像(寿像)1964年 都指定有形文化財。
大イチョウ1956年 都指定天然記念物。徳川家光が植樹したと伝えられる神木と約2000坪の敷地に、樹齢100年以上の古木が、、、。
広々と公園内 古木、大事にしたい
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赤穂浪士の本隊は、そのまま芝大門手前から東海道に出て泉岳寺へと向かいましたが、金杉橋辺で磯貝十郎左衛門は将監橋の義兄の長屋に住む重篤の母親を見舞うように大石内蔵助から勧められ、「すでに別れは済ませた」として隊列を乱しての面会を固辞したと伝わります。
芝浜・江戸・品川間へかけての海を、「袖ヶ浦」、そのうち、芝一帯の海手を芝浜、海上を芝浦という。厳密に区分すれば、古川河口部分を金杉浦、本芝から高輪へかけての部分が芝浦となる。
現在は、川に屋形船ご一列に並び、上は高速道、橋の名も見えず、ただの車道優先道路。
国道一号線 浪士たちも「金杉橋」を
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西郷と勝の会談は、13・14日の両日にわたって行われた。江戸総攻撃の前日である14日、三田の薩摩藩蔵屋敷における最後の会談で、江戸無血開城が取り決められて総攻撃は中止され、江戸の町が戦火に包まれるのを防ぐことができたのです。
新政府軍の江戸城総攻撃の前日にあたる慶応4年3月14日、幕府陸軍総裁勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会見し江戸無血開城を取り決めた。
三菱自動車ビル前に碑が
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「柴村・本芝」は、江戸時代東海道の整備によって、急速に発展、「柴町・芝町」とも呼ばれ、周辺地域も「芝」と呼ばれていた。
1662年 町奉行支配となり本芝7ヶ町が成立。現在の本芝公園のある場所は、昭和39年頃まで漁船の入る入江になって、魚市場本芝組の雑魚場として江戸前の魚介類が豊富に揚がり浅草海苔の生産地としても有名。
古典落語の中でも屈指の人情噺として知られる「芝浜」の舞台にもなっているところ。
「御穂鹿嶋神社」は、西郷と勝会談の碑裏手にある神社で、 御穂と鹿嶋神社は、もともと別の神社であったようで、本芝両社と呼ばれ、宮司は兼任で(江戸時代も別当は兼任)、祭礼も同日だったらしい。
1479年(文明11)年 御穂神社が 創建され、1624~44年 鹿嶋神社 創建したという。
この辺りは海であった 鹿嶋神社
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田町駅前と桜田通りを結ぶ細い路地に、「慶應仲通り商店街」がある。桜田通り側は三田二丁目交差点に出るので、田町駅前から慶大方面に向かう場合はここを通る。
田町駅から、この商店街に入ると「水野監物邸跡の碑」がある。
「水野監物邸跡の碑」三河国岡崎藩主・水野氏の中屋敷跡であった。(現在は灯籠のみ)水野忠之が藩主の時、同屋敷には元禄赤穂事件で吉良義央邸に討ち入った赤穂浪士9名が幕府の沙汰を待つためにお預けになり結果として1703年、同邸で切腹した。
預けられた赤穂浪士9名は、 間光興、 奥田行高、 矢頭教兼、 村松高直、 間瀬正辰、 茅野常成、 横川宗利、 三村包常、 神崎則休。
慶応中通りに、水野家屋敷跡が 慶応大学正門前
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初代慶応義塾長、「福沢諭吉」 1835-1901 洋学者、豊前中津藩士大阪蔵屋敷で生まれ、封建的門閥制度への不満から、学問の道へ。漢学を学び、19歳で長崎、大阪緒方洪庵入門し蘭学を極め、塾長に、その後江戸に出て、塾を開く、1860年幕府の使節がアメリカに渡るとき従儀として咸臨丸に乗り組むことを許された。遺欧使節団に随行し、帰国後幕府に出仕した。
明治に入り、塾に専念し慶応義塾を。政治的行動には出ず、多数の著述や翻訳西洋事情を紹介している。
慶応大学
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「御田八幡神社」は、祭神 誉田別尊 天児屋根命 武内宿根命。創立 709年 祭日 大祭 7月最終の金・土・日。
第一京浜国道沿いの御田八幡神社 高輪大木戸跡、国道下り方面のみ
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「高輪大木戸跡」は、都指定史跡、高輪2丁目、江戸名所図会高輪大木戸高輪大木戸跡高輪。東海道芝田町寄りには大木戸と高札場があった。
高札は、江戸六箇所の高札の一つで、1682年 芝田町4丁目 のちの元札之辻から東側海手に移されたが、破損により 1711年に西側に立て替えられた。大木戸は、1710年に作られた。柵・門・土手・石垣・門番所があったが、たびたびの類焼により1828年年当時石垣・土塁を残すのみ。「江戸名所図会」には、旅人を送迎する宴が張られ、にぎわう茶屋の様子が描かれている。
江戸時代後期には、木戸の設備は廃止され、また、明治初年には西(山)側の石垣は取り払われた。現在残されたいる東(海)側の石垣は、幅4.5m、長さ7.3m、高さ3.6mで貴重。
浪士達も大木戸を通り泉岳寺へ ここ右折
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「高輪稲荷神社」御祭神 宇迦御魂命。泉岳寺鎮護。
泉岳寺交差点の稲荷神社、手前の道路は第一京浜。社殿は東面。
角地を上手く利用して3階に鎮座。2階に社務所で1階に入り口、と。限られた空間のビルの神社。後方は泉岳寺となる。
交差点角にあるビルの稲荷神社 神社境内から見た国道
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次回は、いよいよ、浅野家菩提寺、泉岳寺へ。