syuの日記・気まま旅

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谷中七福神・北区田端から

2013-01-08 | 気まま旅

2013年、スタートは、「谷中七福神」にしました。

弁財天 不忍池弁天堂 (上野公園2)。大黒天 護国院 (上野公園10-18)。毘沙門天 天王寺 (谷中7-14-8)。
寿老人 長安寺(谷中5-2-22)布袋尊 修性寺 (西日暮里3-7-12)。恵比須 青雲寺 (西日暮里3-6-4)。福禄寿 東覚寺 (田端2-7-3)。
弁天堂は、寛永年間の始め、常陸下館城主水谷伊勢守勝隆が不忍池に中島を築き、弁天堂を建立した。
現在の堂は昭和33年の再建、不忍池由来碑、ブグ供養碑等多くの碑が有る。
又、天王寺は、谷中寺町第一の寺院、江戸時代は富くじ興行で知られていた。幸田露伴の「五重塔」と、上野彰義隊戦争で多くの堂宇を消失し、その面影だけで残念である。

「江戸風俗総まくり」に「谷中日暮里に春のあした七福神詣という事ありて今の天王寺の毘沙門天、護国院の大黒天、池之端の弁天、笠森脇の寿老人、
田畑の恵比寿、西行庵の福禄寿、日暮里の布袋なり」とあります。
吉祥天などの福神まいりは古くからあり、参拝人で賑わう門前には歓楽街もあり、江戸の参拝は、行楽でもあった。
谷中七福神は今の組み合わせが、江戸時代から限られていたわけではなく、大黒天、恵比寿は神田明神、清水観音堂、大黒天は経王寺、毘沙門天は谷中本通寺、
弁財天は北町の養泉寺とする事もあった。歴史では最も古い七福神巡りといえる。

JR田端駅の「福禄寿・東覚寺」から、

                       左右仁王の石像
  

田端切通しにそって台地へ上る急坂で、昔は田端八幡神社の別当寺東覚寺墓地への参道で「東京府村誌」に「長さ二十間、広さ一間三尺」と記されている。
寺の前には2基の大きな仁王の石像があり、病のある部分に赤紙を貼ると、病がなおると信仰されており、谷中七福神の1つ、福禄寿も祀ってある。
蜀山人の狂歌「むらすずめさはくち声もももこえもつるの林の鶴の一声」の碑がある。


赤紙の仁王尊
    

昔は田畑ばかりだった「田端」、東覚寺は、「西国二十九番丹後松尾寺移 東覚寺 九品仏 仁王像 八幡宮 二番」とある。
赤紙仁王で有名なこのお寺。山門前のお堂に二体の仁王像があり、赤い紙で埋め尽くされてその姿はなんだかわからない。

東覚寺の山門                     薬師如来立像
  

白龍山寿命院「東覚寺」が正式名称、真言宗豊山派の寺。 お寺には「山号」というものがついて、これはもともと山に寺があったからでは?。入り口は「山門」。

弘法大師立像              釈迦坐像                  本堂
    

東覚寺と隣接の「田端八幡神社」は、1189年 源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されと伝えられ、江戸期には、田端村の鎮守。
祭神・品陀和気命、境内社に、稲荷社、富士浅間社、三峰社。

東覚寺隣接の八幡神社鳥居                  拝殿
  

「田端文士村記念館」
田端は、明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村だった。しかし、上野に東京美術学校が開校されると、次第に若い芸術家が住むようになり、
明治33年に小杉放庵(画家)が下宿し、36年に板谷波山(陶芸家)が田端に窯を築くと、その縁もあって、吉田三郎(彫塑家)、香取秀真(鋳金家)、
山本鼎(画家・版画家)らが次々と田端に移り住み、画家を中心に“ポプラ倶楽部”という社交の場も作られ、まさに<芸術家村>となった。
大正3年、芥川龍之介(小説家)が、5年室生犀星(詩人・小説家)が転居し、引き続いて、萩原朔太郎(詩人)、菊池寛(小説家)、堀辰雄(小説家)、
佐多稲子(小説家)らも田端に集まった。
こうして大正末から昭和にかけての田端は<文士村>としての一面を持つようにもなった,,,,,,.。

JR田端駅前の館内は、関係資料等を無料で展示公開している。月曜休館

記念館前                     行事ポスター
    

芥川龍之介 (明治25年~昭和2年)小説家
東京・京橋出身。大正3年、一家で田端に新築転入。
東京帝大時代、久米正雄、菊池寛、山本有三らと「新思潮」(第3,4次)を創刊。夏目漱石の木曜会に出席して、漱石門下となる。
「羅生門」「鼻」「手巾」等を次々と発表、一躍文壇の寵児となる。一ノ宮、鎌倉、横須賀、鵠沼にも住んだが、大正8年、田端に戻り本格的に文筆活動を展開。
また、瀧井孝作(折柴)、室生犀星らと俳句もつくった。たぐいまれな才気と下町人特有の世話好きな性格は多くの人々を惹き付け、田端を「文士村」とする。
昭和2年7月「唯、ぼんやりとした不安」という言葉を遺して自らの命を絶った。


芥川龍之介跡地と碑 
    

「不動坂」は、途中から下側は、急な階段である。坂下を左折すると、田端駅の南口で、山手線と京浜東北線がさらに下側を走っている。
坂上に不動尊の石像があったことから不動坂とよばれ、もとは東の方の田端新町へ下る長い坂であったが、線路ができたため分断され、
坂上側で一部が石段坂となって残った。
与楽寺の寺領はいまの田端駅を含む広大な地域、坂上にあった不動尊も同寺の仏像の一つであったという。

「ひぐらし坂」は、荒川区西日暮里四丁目にある、道灌山通りに面する開成高校の正門脇から、途中左方に曲がり、開成学園グラウンド脇に上る。
坂のある台地は道灌山と呼ばれる高台。この坂は道路を通すために道灌山を削り、その道灌山通りと田端方面を接続させるために作られた
と云う。

  

続き、谷中七福神その2へ。