syuの日記・気まま旅

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忠臣蔵を歩く 両国から

2013-01-19 | syu散歩

両国と云えば東京の夏の風物詩、隅田川花火大会、江戸時代中期にコレラの大流行や農作物の大凶作で、江戸は水神祭に厄払いに打ち上げたのが始まりであった。終戦後一時中止している。
江戸開府以前は、隅田川が、下総国と武蔵国の境であったことからここに架ける橋を両国橋としたのが、そのまま地名となった。
以来東京と千葉を結び、鉄道、道路、商業、住宅などで発展。隅田川岸に沿って高速6号線走っている。江戸時代、町人文化の中心として栄えた。
幕府も「明暦の大火」などで、両国に無縁寺「回向院」を建て、境内に勧進相撲が行われた。その後は、蔵前、現在の駅北側に受け継がれている。
その為か相撲部屋が集中している。

今回は、忠臣蔵四十七士の足取りを追って散策した。
元禄15年12月14日の晩、赤穂浪士47名が吉良上野介邸に押し入り、上野介を殺害して主君の仇を討つ。


両国駅は、千葉県方面への鉄道を建設した私鉄であった総武鉄道が1904年に「両国橋駅」として開業した。
総武鉄道は市川駅より東側の区間を先に開業しており、そこから西へ東京へ向かって順次建設を進めてきた。
本所駅(後の錦糸町駅)から両国橋駅までの区間が都心側で最後に開業。

本所から両国橋までの沿線はすでに市街地になっており、高架線とすることを条件に免許が出され、会社側は建設費のかかる高架線を避けようと、地上の線路に変更しようとする工作をしたが、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して開業することになり、これは日本の鉄道で最初の高架区間である。
単線で開業したが、最初から橋脚は複線用に準備されており、早く1906年に複線化された。

両国橋から吉良邸に向かう。電車で両国駅下車、まずは両国橋からスタートする。

両国駅北口                        高速6号線と両国橋
  

「大高源吾句碑」向島の俳諧師、「宝井其角」の弟子であったい赤穂浪士 大高源吾の句。
「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑、この句は、討ち入りの夜、俳句の師匠宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。

大きな「表忠碑」は、両国橋の橋元に立つ日露戦役戦没者慰霊碑、陸軍元帥大山巌筆に元本所区の日露戦争での戦没、病死者の慰霊のために、海軍中将榎本武楊が委員長の戦没者弔魂祭兼凱旋軍人歓迎会により明治四十年元旦建立された碑。

両国橋の袂に
    

「両国回向院」は、山号 諸宗山、宗派浄土宗、本尊 阿弥陀如来、創建年 1657年(明暦3年)、開基江戸幕府、諸宗山 無縁寺 回向院、江戸三十三箇所4番。
振袖火事と呼ばれる明暦の大火、1657年の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬した。
あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、ペットの墓も多数ある。
著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。 参拝客のために両国橋が架けられたとも言われている。
1781年以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。
1936年(昭和11年)には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立。


回向院                         境内
    

徳川家綱は、三代家光の長男、武断政治から文治政治に、すぐ弟綱吉に継承、綱吉は、犬公方「生類憐れみの令」を出す。


江戸を騒がした鼠小僧の墓            生き物の供養塔が
    

両国橋から回向院により吉良邸まで約30分。

「吉良義央」 1641-1702 通称上野介、足利一族の名門吉良家に生まれ、幕府の典礼を掌った。元禄14年接待役赤穂藩主浅野長矩に切りつけられ、お役御免となる。翌年赤穂浪士の襲撃を受け打ち取られた。
領地の三河国吉良では、善政をしいたこたから、領民から名君と慕われていた。
新田開拓、塩業、一昼夜で築いた182M堤、治水工事により豊作し、赤い馬の領内巡回「吉良の赤馬」で親しまれていた。
諸大名に礼儀作法を指導し代償として付け届けがおおく、領民から税は、取る必要が無かったという。
養子の吉良義周は、諏訪に配流され、吉良家は断絶処分たなった。

元禄15年 1702年12月14日 雪の中、赤穂の四十七士「忠臣蔵」


浪士たちは表門と裏門の二手に分かれて吉良邸に侵入。上野介は物陰(一説では炭小屋の中)に隠れているところを発見され、討ち取られます。
吉良邸は不意を付かれたためほとんど無抵抗の状態で、討ち入り側には一人の死者も出ていない。
浪士たちは、そろいの羽織を着て堀部安兵衛宅に集まって向かった、などという話や「山」「川」といった合い言葉を使った、という話があるが、実際は怪しまれないようにみんなばらばらの衣装で、江戸市内の数カ所に分散して集合してからできるだけばらばらに吉良邸をめざした。ただし内蔵助ら数人の武士がほんとうに火消装束を着てたようです。
これは夜中に町を歩いていて見とがめられたときに「火の用心の夜回りをしている」と答えるためであったと言われている。

吉良家屋敷は広大な、2550坪(約8400M2)母家381坪・長屋426坪という。それまでは、鍛冶橋を拝領、刃傷事件後移されている。
幕府の意図的とも云われている。

吉良邸の碑               屋敷前                   入口             
    

「松之大廊下の刃傷」(梶川日記から)
3月14日(4月21日)、勅使、院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀が江戸城本丸御殿白書院にて執り行われる予定になっていた。
同日巳の刻(午前9時過ぎ)、江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)において吉良義央と留守居番梶川頼照が居合わせた所へ、突然、浅野長矩が吉良義央に対して背後から、小サ刀にて叫び声をあげながら斬りかかった。
吉良は背後から背中を斬られ、「これはなんと」と振り向いたところを額を2回切りつけられ、気を失ってうつ伏せに倒れた。
梶川頼照がすぐさま浅野を取り押さえ、居合わせた品川伊氏(豊前守)、畠山義寧(下総守)ら他の高家衆が吉良を蘇鉄の間に運んだ。
連行される途中、大広間の後ろの廊下で、浅野は「吉良上野介はこの間中から遺恨があるので、殿中と申し、今日のことと申し、かたがた恐れ入ることではあるが、是非に及ばず討ち果たしたのだ」とずっと繰り返し、「拙者も5万石の城主だ。場所柄をはばからないのは重々恐れ入るが、乱暴な取り押さえで服が乱れた。お上にはなんの恨みもないから刃向かわない。殺せなかったのが残念だ」と言っていたとのことであった



上杉家の史料では、「死者15人、負傷は23人」、「吉良邸は野原のように散乱し、ここかしこに、負傷者や死者が倒れていた。
山吉新八・須藤与一右衛門・左右田孫八らは、よく奮戦し、しのぎをけずるほど戦ったが、敵の赤穂浪士は皆戦闘服を着込んでおり、鎗で突いても通らず、敵の赤穂浪士には負傷者もあまりいなかった。
本所の吉良方には死者15人、負傷者23人です」とある。


稲荷大明神                     井戸と一部の屋敷跡 
  

「中島伊勢」は、赤穂事件(忠臣蔵)の後、町人に払い下げられた本所松坂町となったこの辺りに住んだと云われている。
伊勢は、幕府用達の鏡師で、1763年、のちに葛飾北斎となる時太郎を養子とした。北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判らない。
飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるという。この噂、北斎自身が広めたとも云う。

吉良邸前に
  

赤穂浪士四十七士は、永代橋を目指した、次回。