syuの日記・気まま旅

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谷中七福神 池之端不忍池

2013-01-16 | 気まま旅

縄文時代、この辺り一帯は東京湾の入り江。海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀ごろに池になったと考えられる。
1625年、江戸幕府は、西の比叡山延暦寺に対応させ、この地に寛永寺を建立した。開祖である慈眼大師・天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を作った。
当初の弁天島は文字通り船で渡る島であった。しかし1672年に弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになる。
明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なって、特に池の北側は今よりもかなり広く藍染川という川も注いでいた。
しかし1884年、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われほぼ現在の形が出来上がった。池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には天皇臨席のもと第1回の競走が行われ、以降1892年まで春と秋に競馬が行われた。

1907年には東京勧業博覧会のために西に向かって観月橋がかけられ、池の中央を横断できるようになった。
1967年には地下鉄千代田線の建設工事に伴う土砂崩れで池の底が抜け、約3万トンの水がトンネルに流れ込む事故が起きている。
1990年から1994年にかけては水質浄化のため都建設局によって層流多循環システム、曝気噴水ポンプ、生物酸化処理膜の設置などが行われた。

「五条天神社」は、古来より医薬、禁厭の神として信仰され、第12代景行天皇時代、日本武尊が東夷征伐の折り、上野忍が岡を通った際に「薬祖神」の加護に感謝し祀ったのが始まり。

神社上が「上野精養軒」、1872年 三条実美や岩倉具視の援助により、東京府築地に「西洋館ホテル」創業。 1873年 精養軒ホテルと改称。1876年 上野精養軒開業。
  


「弁天堂」は、寛永寺の伽藍の一つで、竜泉弁天院を開基した備中松山城主の水谷伊勢守により建設。弁天堂に祀られている弁財天は、谷中七福神の弁財天、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場30番札所。
不忍池、参道、桜と東京の名所。縁日・9月16日巳成金大祭、毎月初巳日縁日は、金運由で賑わう。


上野動物園水族公園           不忍池                弁天堂入口
    

池の端に柳の古木                        弁天橋
  

本殿
    

  

「下町風俗資料館」は、古き良き下町の文化を永く後世に伝えるために出来た資料館。(入館有料)
       
    

「上野アメ横」
元々は民家や長屋がひしめき合う下町特有の住宅街で国鉄の変電所が在ったことから空襲に因る被災を避けるため強制的な建物疎開が行われたが、東京大空襲に因って周辺一帯は焦土と化し、第二次世界大戦後はバラック建ての住宅と店舗、そして屋台に混ざって露天で商売をする人々が目立ち始めるようになる、これらは国に許可を受けない闇市と呼ばれた。
今は、明るい商店街で、連日賑わっている町。


  


これで田端からスタートした谷中七福神初詣は終わります。