syuの日記・気まま旅

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七福神その4・谷中 上野の山

2013-01-14 | 気まま旅
「上野の山」は、三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた。
以来、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争では寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため(上野戦争)、伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化した。
1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。
このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称されている。谷中桜木町寺の門前町を抜けると「東京芸術大学」に出る。
都立上野高校前角に「谷中七福神・護国院大黒天」がある。

寛永2年(1625年)、寛永寺の最初の子院として創建された。寛永寺本坊の裏手、現在の東京国立博物館北側の寛永寺墓地の位置にあったという。
1630年、天海によって釈迦堂が建立されると、その別当寺(管理寺院)となった。
護国院は徳川家霊廟の建立に伴い2度にわたり移転し、現在地に移ったのは、1709年のこと、釈迦堂は、1717年に焼失し、1722年に再建された。
1639年 藤原信実筆と伝える大黒天画像は、1639年、徳川家光によって奉納されたものである。


谷中七福神大黒天・護国院


護国院の重要文化財 、 絹本著色愛染明王像 - 東京国立博物館に寄託。有形文化財、 庫裏など。

三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっている。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場14番札所。
「東叡山・寛永寺」江戸時代は上野の山を占めていた。
                                              本堂


「寛永寺」は、徳川家の菩提寺。増上寺は中世から存在した寺院であったが、寛永寺は天海を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院である。
徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、1622年、現在の上野公園の地を天海に与えた。
当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信枚、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。

秀忠の隠居後、1625年、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立され、年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
その後、1627年には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、1631年には清水観音堂、五重塔などが建立されたが、これらの堂宇の大部分は幕末の上野戦争で失われた。
このようにして徐々に伽藍の整備が進んだが、寺の中心になる堂である根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った1698年、5代将軍徳川綱吉の時であるという。

鐘楼                      江戸時代の寛永寺             銅灯籠


寛永寺根本中堂は、現在の上野公園大噴水のあたりにあり、重層入母屋造、間口45.5m、奥行42m、高さ32mという壮大な規模のものであった。
中堂前には方形に回廊をめぐらし、正面に唐門を設けていた。 本坊 - 現在の東京国立博物館の敷地にあった。
正門のみが上野戦争で焼け残り、しばらくは博物館の正門として使用されていたが、その後博物館の東の輪王寺に移築されている。
博物館本館裏の日本庭園は寛永寺本坊庭園の名残りである。


「黒田記念館」日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13年に没する際、遺産の一部を美術 の奨励事業に役立てるよう遺言。
昭和3年に竣工した黒田記念館。
  


明治23年に創設されて以来、音楽教育の練習、発表の場として永く使用されてきた旧 東京音楽学校奏楽堂は、建物の老朽化が進み、また、音楽の演奏形態の拡大等に対応できなくなってきたため、昭和59年に解体し、その後、上野公園内に移築再建された。

滝廉太郎像
  


都美術館裏手に使われなくなった、京成電鉄「上野動物園前」駅出口と旧動物園正面玄関、人通りも疎ら。
  


旧切符売り場             国立博物館隅にある京成の駅出口
  

昔からある「鶯団子」屋さん          動物園正面玄関前の遊園地
  


「上野東照宮」は、恩賜公園内にある神社で、徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。
1627年、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建し、1616年、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言。
現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したものである。


不忍池通りの大鳥居       長い階段              数少なくなった銅灯籠
    

「天海」~1643 天台宗の僧、家康の側近中の側近、日光山を再興し改葬した。
上野の山は、天海の云った江戸城から見て鬼門であり、徳川幕府が恐れていた通り、最後の地となった。


正面                       参道                  五重塔
    

本殿工事中(写真)



次回は、不忍池の弁天堂へ。谷中七福神全て参拝できました。