夕方のNHKニュースで、 「奈良教育大学付属小学校で、不適切な指導が」とタイトルが出て「何事ぞ!」と思ったが、「不適切な指導が行われていたのは9教科31項目の授業で、「図画工作」では国の検定で認定された教科書を使わずに、教員が作成したプリントなどで授業を行っていたほか、「国語」では3年生から6年生までで必修の毛筆による習字の授業が行われていなかった。また、全学年で義務づけられている「君が代」斉唱の指導は、6年生だけにしか行われていなかった。」という内容を聞いて「なんだ!」とテンションが下がってしまった。
奈良教育大学附属小学校の事については何も知らないのでコメントのしようがないが、私の個人的な認識では、教育大付属高校では学習指導要領に強く縛られずに先進的な指導方法、内容を行なうことができる場ととらえていた。実際、私が教育実習で行った愛知教育大学附属名古屋中学校でも実験的な取り組みがなされていた。その成果を発表することで一般の中学校での授業改善のヒントにつながると考えていた。実習生の私にも、教科書のまま教えるのではなく、よく消化して自分なりにアレンジした教材を作ることが求められた。数学でも道徳でも自作のプリントで授業に臨んだ。「教科書を教えるのではなく、教科で教える」ということをよく言われた。その心は、教材を一度自分の身体を通すことが大切だということだった。
そういう私にとっては、校長の記者会見には少し違和感を覚えた。学習指導要領には在職中振り回されたという思いが強いのでこの機会に振り返っておきたい。長くなるので今日は、取り合えずその変遷について整理した。
1947年(昭和22年)-
*第二次世界大戦後しばらく行われていた学習指導要領。手引きという立場であり、各学校での裁量権が大きかった。1953年(昭和28年)までは学習指導要領(試案)という名称であった。
*小学校において、戦前からの修身、地理、歴史(国史)が廃止、社会科が新設され、家庭科が男女共修となった。自由研究が新設された。
1951年(昭和26年)~
*小学校の総授業時数は5,780コマ。中学校の総授業時数は3,045コマ。
*自由研究は廃止され、教科以外の活動(小学校)、特別教育活動(中学校)と改められた。中学校の習字は国語科に、国史は社会科に統合された。体育科は保健体育科に改められた。職業科は職業・家庭科に改められた。
1956年(昭和31年)~-
*高等学校の学習指導要領のみ改訂された。
*特別教育活動の指導時間数(週1〜3時間)が規定された(以前の学習指導要領でも指導時間数の目安は示されていた)。
1961年(昭和36年)~-
*系統性を重視したカリキュラム。道徳の時間の新設、科学技術教育の向上などで教育課程の基準としての性格の明確化を実現。
*公立学校に対して強制力がある学習指導要領が施行された。
*小学校6年間の総授業時数は5,821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,941コマ。中学校3年間の総授業時数は3,360コマ。
*中学校の職業・家庭科が技術・家庭科に改められ、高等学校の古典、世界史、地理、数学II、物理、化学、英語にA、B(または甲・乙)の2科目を設け、生徒の能力・適性・進路などに応じていずれかを履修するなど、科目数が大幅に増加した。
*高等学校の外国語が必修となったほか、科目の履修に関する規定が増加した。
1971年(昭和46年)-~
*現代化カリキュラムといわれる濃密な学習指導要領。時代の進展に対応した教育内容の導入で教育内容の現代化を実現。
*小学校6年間の総授業時数は5,821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,941コマ。中学校3年間の総授業時数は3,535コマ。
*高等学校の社会科や理科で旧課程のA・Bの区分は廃止、新たに地理A(系統地理的)、地理B(地誌的)などを設置した。
ソ連が1957年(昭和32年)に人工衛星スプートニク1号を打ち上げたことは、アメリカの各界に「スプートニク・ショック」と呼ばれる衝撃が走った。アメリカ政府は、ソ連に対抗するために学校教育を充実し、科学技術を発展させようとした。これに伴って、「教育内容の現代化運動」と呼ばれる、小中学校からかなり高度な教育を行おうとする運動が起こった。この運動が日本にも波及し、濃密なカリキュラムが組まれたが、授業が速すぎるため「新幹線授業」などと批判された。当時は公立学校も私立学校も学習内容にはあまり違いがなかった。結局、教科書を消化できず、教科書の内容を一部飛ばすなどしてやらない単元を残したまま進級・卒業をさせる場合もあった。
1980年(昭和55年)~
教科の学習内容が削減された学習指導要領(この当時は土曜日も毎週授業があった)。各教科などの目標・内容を絞り、ゆとりある充実した学校生活を実現。別名「第一次ゆとり教育」とも呼ばれ、当時若手だった寺脇研が主導した。文部科学省の出版する学制百二十年史によると、各教科の指導内容を大幅に精選し思い切って授業時間を減らしたことが大きな特色とある。この改訂より前は傾向として学習量が増える方向性を保っていたことから、日本の教育史を考えるうえでも非常に重要な分岐点となっている。いわゆる「ゆとり」への方向性は、1972年の日教組の提起以降、中曽根政権下での臨時教育審議会の答申などを踏まえて徐々に整備され、土曜日の隔週休日の導入、完全週休二日制への移行などの経緯をたどった。
*小学校6年間の総授業時数は5,785コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,659コマ。中学校3年間の総授業時数は3,150コマ。
*中学校の選択教科の選択肢が拡大された。高等学校の科目履修の基準が緩和された。
1992年(平成4年)~
新学力観の登場。個性をいかす教育を目指して改定された、教科の学習内容をさらに削減した学習指導要領。生活科の新設、道徳教育の充実などで社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成を実現。戦後6度目の改訂。
*小学校6年間の総授業時数は5,785コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3,659コマ。中学校3年間の総授業時数は3,150コマ。
*小学校の1・2年では理科・社会科に代えて生活科が導入された。
2002年(平成14年)~
教育内容の厳選、「総合的な学習の時間」の新設により、基礎・基本を確実に身につけさせ、「いかに社会が変化しようと,自分で課題を見つけ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力」などの「生きる力」の育成を宣言し、生涯学習社会への移行を促していく。
*小学校6年間の総授業時数は5,367コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3,148コマ。中学校3年間の総授業時数は2,940コマ。
学校週5日制が実施された。中学校では英語が必修となった(実質的には大部分の学校で以前も事実上必修扱いであった)。また、小学校中学年から高等学校では総合的な学習の時間が、高等学校では情報科および福祉科が創設された。その一方で、教科の学習内容が削減され、中学校・高等学校はクラブ活動(部活動)に関する規定が削除された。
2003年(平成15年)~
2002年(平成14年) の学習指導要領を一部改正。2003年(平成15年)12月に一部改正が行われ「過不足なく教えなければいけない」という歯止め規定の文言が消滅した。学習指導要領は最低限教えなければならない内容であり、その学習指導要領の内容を超えて、いわゆる「発展的な学習内容」も教えることができるようになった。
2011年(平成23年)~
戦後8度目の改訂の学習指導要領。ゆとりでも詰め込みでもなく、知識、道徳、体力のバランスとれた力である生きる力の育成を実現。脱ゆとり教育とも呼ばれている。
1980年(昭和55年)の改定以来、減り続けてきた授業時間はおよそ30年ぶりに増加。小学校の授業時数は6年間で現行より278コマ増えて5,645コマ、中学校は3年間で105コマ増え3,045コマとなる。前指導要領から開始された総合的な学習の時間の総授業時間は大幅に削減され、主要5教科(国語、算数・数学、理科、社会、英語)および保健体育の総授業時間が増加した。
小学5、6年生に「外国語活動」の時間を創設。また、平成24年(2012年)4月から中学校の体育で男女ともに武道とダンスが必修になった
2018年(平成30年)~
2011年(平成23年)の学習指導要領を一部改正。2015年(平成27年)3月27日、学習指導要領を一部改正し、これまで教科外活動(領域)であった小学校・中学校の「道徳」を、「特別の教科 道徳」とし、教科へ格上げした。
2020年(令和2年) ~
戦後9度目の改訂の学習指導要領。「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」の導入やプログラミング教育の充実が図られる。
小学校の授業時数は6年間で現行より140コマ増えて5,785コマとなり、前回の改訂から2回連続の増加となる。これは、小学3、4年生に「話す」「聞く」を中心に教科以外の教育活動(領域)として学習する「外国語活動」を、これまで小学5、6年生で行っていたものを前倒しして週1時間(年間35コマ)行い、小学5、6年生は「話す」「聞く」に加えて「読む」「書く」も含めた「外国語」と正式な教科として週2時間(年間70コマ)行うことにより、授業時数が増加したことによるものである。中学校は3年間で3,045コマと前回の改訂からの増減はない。
戦後、それぞれの時期で生徒としてまた、教師として学習指導要領の改訂にともなうさまざまなことを経験してきた。附属小のニュースに接して、もう一度見直してみたいという思いに駆られた。次回は、私自身が経験したことにふれたい。
奈良教育大学附属小学校の事については何も知らないのでコメントのしようがないが、私の個人的な認識では、教育大付属高校では学習指導要領に強く縛られずに先進的な指導方法、内容を行なうことができる場ととらえていた。実際、私が教育実習で行った愛知教育大学附属名古屋中学校でも実験的な取り組みがなされていた。その成果を発表することで一般の中学校での授業改善のヒントにつながると考えていた。実習生の私にも、教科書のまま教えるのではなく、よく消化して自分なりにアレンジした教材を作ることが求められた。数学でも道徳でも自作のプリントで授業に臨んだ。「教科書を教えるのではなく、教科で教える」ということをよく言われた。その心は、教材を一度自分の身体を通すことが大切だということだった。
そういう私にとっては、校長の記者会見には少し違和感を覚えた。学習指導要領には在職中振り回されたという思いが強いのでこの機会に振り返っておきたい。長くなるので今日は、取り合えずその変遷について整理した。
1947年(昭和22年)-
*第二次世界大戦後しばらく行われていた学習指導要領。手引きという立場であり、各学校での裁量権が大きかった。1953年(昭和28年)までは学習指導要領(試案)という名称であった。
*小学校において、戦前からの修身、地理、歴史(国史)が廃止、社会科が新設され、家庭科が男女共修となった。自由研究が新設された。
1951年(昭和26年)~
*小学校の総授業時数は5,780コマ。中学校の総授業時数は3,045コマ。
*自由研究は廃止され、教科以外の活動(小学校)、特別教育活動(中学校)と改められた。中学校の習字は国語科に、国史は社会科に統合された。体育科は保健体育科に改められた。職業科は職業・家庭科に改められた。
1956年(昭和31年)~-
*高等学校の学習指導要領のみ改訂された。
*特別教育活動の指導時間数(週1〜3時間)が規定された(以前の学習指導要領でも指導時間数の目安は示されていた)。
1961年(昭和36年)~-
*系統性を重視したカリキュラム。道徳の時間の新設、科学技術教育の向上などで教育課程の基準としての性格の明確化を実現。
*公立学校に対して強制力がある学習指導要領が施行された。
*小学校6年間の総授業時数は5,821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,941コマ。中学校3年間の総授業時数は3,360コマ。
*中学校の職業・家庭科が技術・家庭科に改められ、高等学校の古典、世界史、地理、数学II、物理、化学、英語にA、B(または甲・乙)の2科目を設け、生徒の能力・適性・進路などに応じていずれかを履修するなど、科目数が大幅に増加した。
*高等学校の外国語が必修となったほか、科目の履修に関する規定が増加した。
1971年(昭和46年)-~
*現代化カリキュラムといわれる濃密な学習指導要領。時代の進展に対応した教育内容の導入で教育内容の現代化を実現。
*小学校6年間の総授業時数は5,821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,941コマ。中学校3年間の総授業時数は3,535コマ。
*高等学校の社会科や理科で旧課程のA・Bの区分は廃止、新たに地理A(系統地理的)、地理B(地誌的)などを設置した。
ソ連が1957年(昭和32年)に人工衛星スプートニク1号を打ち上げたことは、アメリカの各界に「スプートニク・ショック」と呼ばれる衝撃が走った。アメリカ政府は、ソ連に対抗するために学校教育を充実し、科学技術を発展させようとした。これに伴って、「教育内容の現代化運動」と呼ばれる、小中学校からかなり高度な教育を行おうとする運動が起こった。この運動が日本にも波及し、濃密なカリキュラムが組まれたが、授業が速すぎるため「新幹線授業」などと批判された。当時は公立学校も私立学校も学習内容にはあまり違いがなかった。結局、教科書を消化できず、教科書の内容を一部飛ばすなどしてやらない単元を残したまま進級・卒業をさせる場合もあった。
1980年(昭和55年)~
教科の学習内容が削減された学習指導要領(この当時は土曜日も毎週授業があった)。各教科などの目標・内容を絞り、ゆとりある充実した学校生活を実現。別名「第一次ゆとり教育」とも呼ばれ、当時若手だった寺脇研が主導した。文部科学省の出版する学制百二十年史によると、各教科の指導内容を大幅に精選し思い切って授業時間を減らしたことが大きな特色とある。この改訂より前は傾向として学習量が増える方向性を保っていたことから、日本の教育史を考えるうえでも非常に重要な分岐点となっている。いわゆる「ゆとり」への方向性は、1972年の日教組の提起以降、中曽根政権下での臨時教育審議会の答申などを踏まえて徐々に整備され、土曜日の隔週休日の導入、完全週休二日制への移行などの経緯をたどった。
*小学校6年間の総授業時数は5,785コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,659コマ。中学校3年間の総授業時数は3,150コマ。
*中学校の選択教科の選択肢が拡大された。高等学校の科目履修の基準が緩和された。
1992年(平成4年)~
新学力観の登場。個性をいかす教育を目指して改定された、教科の学習内容をさらに削減した学習指導要領。生活科の新設、道徳教育の充実などで社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成を実現。戦後6度目の改訂。
*小学校6年間の総授業時数は5,785コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3,659コマ。中学校3年間の総授業時数は3,150コマ。
*小学校の1・2年では理科・社会科に代えて生活科が導入された。
2002年(平成14年)~
教育内容の厳選、「総合的な学習の時間」の新設により、基礎・基本を確実に身につけさせ、「いかに社会が変化しようと,自分で課題を見つけ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力」などの「生きる力」の育成を宣言し、生涯学習社会への移行を促していく。
*小学校6年間の総授業時数は5,367コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3,148コマ。中学校3年間の総授業時数は2,940コマ。
学校週5日制が実施された。中学校では英語が必修となった(実質的には大部分の学校で以前も事実上必修扱いであった)。また、小学校中学年から高等学校では総合的な学習の時間が、高等学校では情報科および福祉科が創設された。その一方で、教科の学習内容が削減され、中学校・高等学校はクラブ活動(部活動)に関する規定が削除された。
2003年(平成15年)~
2002年(平成14年) の学習指導要領を一部改正。2003年(平成15年)12月に一部改正が行われ「過不足なく教えなければいけない」という歯止め規定の文言が消滅した。学習指導要領は最低限教えなければならない内容であり、その学習指導要領の内容を超えて、いわゆる「発展的な学習内容」も教えることができるようになった。
2011年(平成23年)~
戦後8度目の改訂の学習指導要領。ゆとりでも詰め込みでもなく、知識、道徳、体力のバランスとれた力である生きる力の育成を実現。脱ゆとり教育とも呼ばれている。
1980年(昭和55年)の改定以来、減り続けてきた授業時間はおよそ30年ぶりに増加。小学校の授業時数は6年間で現行より278コマ増えて5,645コマ、中学校は3年間で105コマ増え3,045コマとなる。前指導要領から開始された総合的な学習の時間の総授業時間は大幅に削減され、主要5教科(国語、算数・数学、理科、社会、英語)および保健体育の総授業時間が増加した。
小学5、6年生に「外国語活動」の時間を創設。また、平成24年(2012年)4月から中学校の体育で男女ともに武道とダンスが必修になった
2018年(平成30年)~
2011年(平成23年)の学習指導要領を一部改正。2015年(平成27年)3月27日、学習指導要領を一部改正し、これまで教科外活動(領域)であった小学校・中学校の「道徳」を、「特別の教科 道徳」とし、教科へ格上げした。
2020年(令和2年) ~
戦後9度目の改訂の学習指導要領。「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」の導入やプログラミング教育の充実が図られる。
小学校の授業時数は6年間で現行より140コマ増えて5,785コマとなり、前回の改訂から2回連続の増加となる。これは、小学3、4年生に「話す」「聞く」を中心に教科以外の教育活動(領域)として学習する「外国語活動」を、これまで小学5、6年生で行っていたものを前倒しして週1時間(年間35コマ)行い、小学5、6年生は「話す」「聞く」に加えて「読む」「書く」も含めた「外国語」と正式な教科として週2時間(年間70コマ)行うことにより、授業時数が増加したことによるものである。中学校は3年間で3,045コマと前回の改訂からの増減はない。
戦後、それぞれの時期で生徒としてまた、教師として学習指導要領の改訂にともなうさまざまなことを経験してきた。附属小のニュースに接して、もう一度見直してみたいという思いに駆られた。次回は、私自身が経験したことにふれたい。