奈良教育大学付属小学校で、学習指導要領を逸脱した「不適切な指導」が行なわれていたニュースにふれて、素浪人の身となって15年となってくるがいまだ自分の中に「学習指導要領」へのわだかまりが根強く残っていることに気づかされ驚いている。その存在を見て見ぬふりをすればストレスとなる。そこで、2日間にわたって、変遷と自分自身の関わりについて大まかに掘り起こしてみた。今日はラスト。違和感が残ったのはなぜだろうをとりとめなく考えてみたい。
私は本来、教育は教育者の責任でするものだと思っている。ただ、近代以降より多くの人に学ぶ機会を保証するために公教育が普及する中で、教師個人の独りよがりにならないために教育内容に一定の指針が必要になってくるのは必然である。難しいのは公教育としての基準と教師個人の思いとのバランスのとり方である。
学習指導要領に「従う」のか「従わない」のかという二者択一的な議論だけでずっと推移してきたきらいがある中で、私はまことに曖昧な立場で関わって来た。善と悪を決めつけることが苦手な自分自身の性質に起因する。
絶対的に正しいことはないことを前提に議論していくことが大切だと思ってきた。現実の中にある問題点を様々な視点を持つ人たちと議論する中で、より良い解決法を見つけていく作業を繰り返すしかないのではないか。
学習指導要領の改訂にともない、現場からいつも懸念の声が出た。その声を封じ込めるようにして教育を推し進めた結果、懸念されたことが露呈してくると検証することなく次の改訂に向かうということを繰り返してきた。
今回の報道でも、学習指導要領が「絶対善」でその内容を逸脱したのは「不適切な授業」という決めつけに違和感を覚えたのである。もう少し掘り下げた報道がほしいと思った。「学習指導要領」は水戸黄門での葵の印籠ではないと思う。
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私は本来、教育は教育者の責任でするものだと思っている。ただ、近代以降より多くの人に学ぶ機会を保証するために公教育が普及する中で、教師個人の独りよがりにならないために教育内容に一定の指針が必要になってくるのは必然である。難しいのは公教育としての基準と教師個人の思いとのバランスのとり方である。
学習指導要領に「従う」のか「従わない」のかという二者択一的な議論だけでずっと推移してきたきらいがある中で、私はまことに曖昧な立場で関わって来た。善と悪を決めつけることが苦手な自分自身の性質に起因する。
絶対的に正しいことはないことを前提に議論していくことが大切だと思ってきた。現実の中にある問題点を様々な視点を持つ人たちと議論する中で、より良い解決法を見つけていく作業を繰り返すしかないのではないか。
学習指導要領の改訂にともない、現場からいつも懸念の声が出た。その声を封じ込めるようにして教育を推し進めた結果、懸念されたことが露呈してくると検証することなく次の改訂に向かうということを繰り返してきた。
今回の報道でも、学習指導要領が「絶対善」でその内容を逸脱したのは「不適切な授業」という決めつけに違和感を覚えたのである。もう少し掘り下げた報道がほしいと思った。「学習指導要領」は水戸黄門での葵の印籠ではないと思う。
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