続・知青の丘

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「作者の作意すら絶対的権威はない」~俳誌『拓』より

2015-01-23 12:16:07 | 俳句
コメントありがとうございます。
あえてこの場を借りて申しあげます。

人間の存在そのものが神秘的なので、
そこから生み出されるものも神秘的になるのでしょうか。
そして、それは、書き手と読み手(主と客)、創作者と鑑賞者の
共同作業の存在があってこそ命輝くのでしょうか。
精神性の高さが問われるように思います。

以下長文です。
PASSしたい方はPASSしてください。

『拓』第48号・同人作品鑑賞欄
(4名の方が、15句選をして、その中の2句について鑑賞文を書く)から

<黴生えてチャップリン的配慮かな   知青>

江良修さんが、この拙句を選に入れてくれて、
次のように鑑賞してくださいました。

<黴が生えたことがチャップリン的配慮なのか、
黴が生えたことに対して私がチャップリン的配慮をしたのか。
微妙だが後者と受け止め鑑賞した。彼の名言の中に
「人生はクローズアップで見れば悲劇。
ロングショットで見れば喜劇」がある。
大切なものに黴が生えた悲しみ(悲劇)も後になれば
楽しい思い出(喜劇)になるさと、
現実を明るくさばく作者の姿が浮かぶ。愉快で壮快な句だ。>


この号の<「拓」第47号観感~「存在のひかり」>の中で、
伊藤淳子氏が,
俳句誌「拓」への感想と御目に留まった9句について。

<俳諧や一人ひとりの蜃気楼  疋田恵美子>

の句評の中で、<良き読み手によって初めて光が当たるのだ>
と書かれています。

良き読み手に出合えた句は幸せ者ですね。
そういう意味で、拙い掲句は恵まれました。
どうかなあと思いつつ、7句出句の中に放り込んでみましたから。

また、河野輝暉氏は、
同号の<第47号特別作品前川弘明「唄う蟻」掌論~主客交歓のひと時~>で、
句の鑑賞・解釈について、次のように述べています。
少し、長くなりますが抜粋します。

<よく言う様に、一句完成して一旦作者の手もとを離れた限りは、
公共のものとして独立する。句意句解が互に異り(原文ママ)、
作者とまるで違った変貌をとげて論じ合うところに俳誌々上の
座談会や句会の醍醐味があるのではないか。
ことに、観念から始まっていて実生活の報告ではないのに、
実相のふりをしている現代俳句界のことならなおさらこの傾向は深まる。
俳句文芸の特色は、作者の作意すら絶対的権威はない。
観賞する客と作者との共作、主客対等の味わい方のために、
俳句の曖昧さというシステムが設置されていると言えよう。>


<作者の作意すら絶対的権威はない>と
河野氏が言いきっておられることが、
なんだかうれしい。

鑑賞文も実は作品なのだと最近気がつきました!




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