本日は菊文研の総会で
久しぶりに古墳館へ。
きょうは、会長の蒲島知事が見えていたからか
お茶が一本ずつ置かれていた。
早々に総会は終了し、
次は県立図書館館長佐藤信氏の講演へ
演題は「古代山城 鞠智城を考える
~律令国家の対外・辺境政策と古代山城鞠智城」
約1時間半。
おおかたは、いままでの学習で周知されていたことだったが
わたくし的に新しかったのは
律令国家の辺境政策について。
663年の白村江の戦の後、
670年に統一新羅が唐を追い払い、
その両方から友好的な使者が来るようになると、
東アジアの軍事的緊張が緩み、
鞠智城の果たす役割に変化が出て来たということ。
蝦夷(北東北)に対しての
東北で造営された古代城柵群と似たような機能として
隼人(南九州)に対しての
九州中央部の古代山城鞠智城の役割があり、
国内の、いかに「まつろわぬ」民を統治し、
支配地を拡大させていくかに
つまり辺境政策に関心が移って行ったということだった。
なるほど、それが鞠智城をして
8世紀から10世紀まで存続させた理由だったのか!!
6月18日から企画展も開催されていた。
京都国立博物館からの40年ぶりの里帰り展示は
弥生時代後期の真木遺跡出土の銅戈2点
同時期の轟遺跡出土の銅矛5点(1点レプリカ)
で、交換として
石人と装飾古墳を貸し出したということだった。
当時は精錬された銅は国内にはないので
中国や朝鮮との交易で青銅器を輸入し
溶かして再加工していたという。
八代から出土した小銅鐸(身・舌)はとても可愛いかった。
ちょっと風鈴を思わせる。
銅鏡も伊都国でみたような大きな立派なものではなく
県内の粗悪で小さなものが展示されていた。
破鏡の風習もあったということで
↓その説明書き
展示品の撮影は禁止ですが
これはOKだということで
撮影しました。
このあと物産館で買い物し
蓮池を散策しました。
まだ本格的な蓮見の季節ではないのですが
次回写真をUPします。
輸出ということなのでしょうか。
コメントありがとうございます。
中国天山北路でご覧になった石人の
時代や出土状況など分かりませんが、
大陸と繋がりがあるのかないのか
今度、装飾古墳館の学芸員さんに聞いてみますね。
九州でも石人を持つ古墳は
範囲が限られているようです。
石人石馬が沢山廻らされている岩戸山古墳の
埋葬者と推定される
筑紫磐井の勢力が及んだ地域に
石人があると聞いています。
磐井は新羅と組んだりしているから
なんらかの大陸の影響があったのか
なかったのか・・・
石は阿蘇溶結凝灰岩。
菊池市にある古墳の石人は一体ですが
手の指が6本ありました。
昨今の中国、朝鮮バッシング眺めていると狭い了見の日本人が増えたな~と情けなくなっております。東アジア情勢が直結していたのは同じなのでしょうが、まだ奈良、平安時代の人々の方がおおらかであったような(笑)気がします😥
古代の日本の律令制度は
渡来人の力がないと導入できなかっただろうし、
大抵の文物の伝播は大陸からで、
そしてその融合という歴史的過程かなと思います。
中国には昔は孟子・孔子等の哲学者が沢山いてその書物や考え方が日本でも学ばれ広められ、また
鑑真など高僧も果敢に日本に来てくれたりしていますが、現代の日中韓を考えますと、
なんだかなあ~
日本人に限らず、
世界中の現代人の了見が狭くなっているように思いますが、いかがでしょう。