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短詩グラマトロジー 第十二回:序次法(『We』18号より)斎藤秀雄

2024-12-27 00:07:27 | 俳句
短詩グラマトロジー 第十二回:序次法
    斎藤 秀雄

 序次法とは《読み手の頭と心にできるだけ抵抗なく入るように、事柄を整理し、一定の方針に従って順序正しく述べる修辞技法》(中村明『日本語の文体・レトリック辞典』)である。例としては、料理のレシピや年譜など。
 序次法を修辞として発見することは難しい。なぜなら、我々はふだん、人が語ることや書くものは、序次法に従っているはずだ、という「読みの構え」を、それと意識することなく前提にしているからだ。話が前後して要領を得ない語り、という事態もよくあるが(「語りのリアリティ」を感じさせるための演出として、しばしば用いられる)、「要領を得ない」と気づくのは、通常期待されうる序次法が破られているからである。
 著名な作品では例えば《滝の上に水現れて落ちにけり》(後藤夜半)は典型的に、序次法に基づいている。しかし、この作品を読むとき、まず我々は、《水》と《滝》とを性質の異なるモノとして呼ぶことの、異様な効果に感じ入るはずであり、そのとき序次法はいわば背景に退いている。しかるのちに、「ただごと句」の表情を備える語り口、序次法による詠みぶりが、一句の迫力を支えていることに気づくのではないだろうか。
 視点を変えて例示しよう。倒置法が用いられた《粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に》(金子兜太)が、もし序次法によって「山を駈けおりてきた俺に粉屋が哭く」とされていたら、どうだろうか。詩情の中心は確かに残っているものの、原句にあった異様な迫力は削がれる。我々が「修辞がある」(例えば「ここに倒置法がある」)と感じるのは、通例としての序次法が破られるときである、と考えることもできるのではないか。
 草野天平の「夕暮」(『ひとつの道』昭和二十二年)という三行の詩をみてみよう。

落葉の沈んでゐる池を見てゐたらば
泡が一つ浮いてきて
消えていつた

 草野天平らしい、「ストイックな」と評される作風に、序次法はきわめて相性がよいように思われる。しばしば「詩人はなぜ俳句が下手なのか」という議論がなされるけれども、天平が俳句を書いていたなら、どうだっただろう、とも考えさせられる。本作はほとんど俳句ではないか。少なくとも世にいう「伝統俳句」に似た表情をしている。ひどく静かであり、異様な存在感がある。それは、描かれた景に異様な何かが含まれているからではなく、むしろ何も含まれていないからである。むろん、《落葉》《沈ん》《消え》といった語彙選択に感傷的なものを感じなくもないし、読者によっては消える《泡》に人生を、浮き世を、あるいは天平の死んだ妻の象徴を見出すのかもしれない。そうした読みを拒むものではない(その意味で、僕の考えでは、天平の詩は十分には「ストイック」ではない)。
 しかしながら、本作に宿る「異様さ」「迫力」の中心は、朴訥とした語り口によって、三行で語り終えている点にある(俳句のようだ)。序次法を修辞として発見することは難しい、と述べたが、本作は序次法そのものが効果として前景化しているといえるだろう。
 短歌の例をみよう。

ここの屋上より隅田川が見え家屋が見え鋪道がその右に見ゆ                   佐藤 佐太郎
やせ細る体真直に芝生よぎり歩み来し姿まなかひに見ゆ                     福田 みゑ

 一首目。歌集『歩道』より。動詞《見ゆ》がリズミカルに繰り返されることにより、読者は語り手の視線の動きを追体験させられる。佐太郎には珍しい破調の歌ではあるものの、歌の内在的リズムによって読後感は心地よい。しかし同時に、ある種の異様さも体感される。見えるものが《隅田川》であることは、詩の「動機」として理解可能である。だが、最終的に視線が行き着くのは《鋪道》である。佐太郎の日常的景において《鋪道》は物珍しいものだったのかもしれないが、そう分かるようには書かれていない。逆にいえば、なんらかの修辞を用いるならば、《隅田川》を着地点として、安心感を与える歌にもできたはずなのだが、そうせずに、ブツッと切れるように終る。ここで序次法は、意図的に用いられているのではないだろうか。
 二首目。おそらく『福田みゑ歌集』(非売品)より。近藤芳美『新しき短歌の規定』から孫引きした。ここには異様な存在感を発光させた《体》《姿》があり、ただひたすら見入るのみの語り手の目玉がある。語り手はおそらくその《姿》にひたすら魅了されている。忘我状態といってよく、かろうじて《見ゆ》によって自我をこの世に留めている。複合動詞を分解するなら、じつに六つもの動詞が用いられていることも特徴的である。僕はかつてこの作品をつねに目に見える位置に掲示していたものだ。
 俳句の例をみよう。

しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く     高浜 虚子
春の雪春の青山の上に降る         渡邊 白泉

 一句目。子規は『日本』での連載「明治二十九年の俳句界」において《虚子の時間的俳句》を数句挙げている。掲句はそのうちのひとつ。子規は、現在は短く、過去未来は長い、といい、現在の連続(掲句がその例)を「客観的時間」、過去または未来を現在と連接させるものを「主観的時間」と呼んでいる。「いま」の滑らかな連鎖に、撫でられるような気持ち良さがある。また、この短さにもかかわらず、籠もって沈潜する「ニワニ」から、破裂する「モヅキナク」への転回をみせる点、技巧的に見事である。
 二句目。冗長性が快楽をもたらすこともあるという典型例。ここから《冬の波冬の波止場に来て返す》(加藤郁乎)へ、さらに《春ショール春の波止場に来て帰る》(攝津幸彦)へと変奏されることになる。筑紫磐井は『加藤郁乎俳句集成』の「解説」で、郁乎句は《一月の川一月の谷の中》(飯田龍太)に先立って書かれた龍太句のパロディであると述べている(「カトーイクヤのいとも豪華なる時禱書」)。これに白泉・幸彦のラインも縫い合わせれば、テクストの系譜学の複雑さに、面白みが増すことだろう。白泉の生まれ育った東京市赤坂区青山南町と、現在の港区南青山に違いはあれど、《青山》のほの明るくて少し冷たい語感には一定の連続性があるものと思われる。       (続)



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