続・知青の丘

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俳句短歌誌『We』17号より 前号俳句 ふたり合評 

2024-03-24 20:19:17 | 俳句
 前号俳句 ふたり合評  

傷がかがやく満身創痍の清き夏   大井 恒行   
櫻井天上火 友人と殴り合った青春の日々か、あるいは戦場か、などと想像が膨らむ一句。「傷」と「かがやく」、「満身創痍」と「清き夏」の強烈な衝突が美しさを生じさせている。同意の反復による強調という手法が巧みでおもしろい。
斎藤秀雄 語り手自身が、身も心も傷だらけである、とも読めるが、字義通りに《夏》そのものが《満身創痍》である、とも読めるのではないか。銀色の、青春の傷。これと共鳴することで、我々にとってもまた、《夏》とは傷つきやすい季節でありつづけているのだろう。

身ぬちなる枇杷の暗がるをんななり  櫻井 天上火  
竹岡一郎 枇杷を庭に植えると病人が出るという伝承あり、これは良く茂る葉に庭が暗くなるからとも、昔の病院に良く枇杷が植えられていたからとも言う。枇杷の葉にも実にも薬効がある。毒と薬は裏表。その女の、毒にも薬にもなるシャーマン性を包括して詠っていると読める。
未補 《身ぬちなる枇杷》は、暗闇のなかに灯るちいさな火のようだ。しかし、句中の《をんな》のからだのなかでは《枇杷》は《暗》くなる。外から見た《をんな》は、どんな姿形をしているのか、まったく読めない。底なしの《暗が》りが、ただ染み出してくるようで恐ろしい。

日に嫁ぐ姉や素甘は歯に乾び   斎藤 秀雄  
早舩煙雨 素甘が歯に乾ぶのは、口が開いたままの状況、つまり、素甘で窒息したか、死人の口に素甘を詰めた時くらいか。耳塞ぎ餅という死者の呼び声を聞かぬようにする風習があるそうだが、死者による呪詛を素甘で防いだとすれば、この神話的婚姻譚の暗部を連想せざるを得ない。
櫻井天上火 神話的スペクタクルと素朴さが同居している。ぶつかるでも共鳴するでもなく、それぞれがただ並び立つことで生じる奇妙さを口寄せるというのは安井浩司以降の流れとしてあるが、この句もその挑戦のうちの一つと考えられる。

父死んで金魚を掬ふ指の冴   竹岡一郎
阪野基道 人形浄瑠璃の語りを聴いているような句だ。
てて(父)が死に懐旧の念の中にあるのだろうか。表題
の悪女からすれば、金魚は女。結句の指の冴は、仏像の
印相か。広隆寺・弥勒像のような美しい指もあるが、そ
の冴えとは、生きとし生けるものを救い導く浄土への道。
しまもと莱浮 虚子の「いつ死ぬる金魚と知らず美しき」から、「死」と「金魚」を伝燈している。また「父死んで」のぶっきら棒さは、臨済の「祖に逢うては祖を殺す」に通じるのではないか。過去を継承しつつ過去を脱する。然すればポイは剣の如く冴え、何事かを掬いとるだろう。

春の風そんなにぎゅっとでなくていい  竹本仰    
松永みよこ そう、ぎゅっとしすぎると、大切なものは逃げてしまうから。でも春の風は若くて力加減がうまくつかめず、自分の渾身の力で束縛してしまうのだろう。
つきあったばかりのカップルのぎこちなさを連想した。くすぐったそうなてれくささ満載の微笑みに包まれる句。
男波弘志 とかく力をいれがちな男に対して、女性の場合には常に繊細な緩急が備わっているのであろう。古の頃より戦を始めるのは、力任せに何かを奪い取ろうとする男ばかりである。隣国という境にも女心という可憐な花が咲いていることを忘れてはなるまい。

ひらがなの春のちらちら浅葱空   林 よしこ   
加能雅臣 冬眠から覚めたばかりの獣のような心境で「春」を迎えている。目も耳も生まれたてのようで、風が「ちらちら」と眩しい。この情景を「ひらがな」と形容しているのが楽しく、「浅葱空」とはなんと縁起の良いことか。この時にしか見られない空なのでしょう。
小田桐妙女 春の雪ではなく、ひらがなの春が降ってくる、素敵だなと思う。地球全体に和歌がしたためられているようだ。相聞歌かもしれない。浅葱色は平安時代に誕生した伝統色とも言われている。着物の裏地としても流行したらしい。ちらちらに隠された秘めごとか?

富士の山なぜ頸に性器を創らざる  早舩 煙雨
阪野基道 日本の象徴フジヤマとセイキを取り合わせる
と何とも騒々しい。国家を暗喩するからだが、国・法・
禁忌と思いを馳せると宗教的にもなる。富士山は信仰の
山。少子化社会にあって子孫繁栄を願い、現代の土偶・
石棒を祀る社が、富士の中腹にあればよい、と解釈した。
竹岡一郎 富士の頸のあたり、五合目に宝永噴火の痕が盛り上がっている。それを男根と観るか女陰と観るかだが、男根には低過ぎ女陰には盛り上がり過ぎ、両性具有的な性器と観えない事も無い。性器とはエネルギーの坩堝であり、「創らざる」とは未だ噴出し切らない不満か。

 虫愛でて爪を立てるや狂れ半ば   阪野 基道   
竹岡一郎 爪は虫に対して立てると読んだ。好きなものは苛めたいという嗜虐の愛か。しかし殺してはいけないので、その加減の難しさにだんだん気が狂ってゆく。爪の長さに比例して狂気は増すか。対象と自分を分けた嗜虐ではない。虫に自らを投影するからこそ狂うのだ。
小田桐妙女 「狂れ半ば」は、気が狂いかけているということか?爪を立てるほど激しく愛でているということなのか?虫が美しすぎて、壁に爪を立てているのかもしれない。いずれにせよ作者のジレンマを感じる。どうしていいのか分からなくなり叫ぶ寸前なのかなと思う。

うららかやマリアのごとき風呂上がり  松永みよこ  
未補 語り手自身の姿か。あるいは恋人や伴侶の《風呂上がり》の姿か。前者だとしたら、自らの裸体をここぞとばかりに見せつけ、誇っているようで好ましい。《うららか》な日差しのもとでは、ふだんなら扇情的な肢体も一枚の宗教画のように神々しく、かつユーモラスに映る。
男波弘志 過酷な運命に翻弄され続けた息子、イエスキリスト。聖母マリアの肉体がどんなに豊満であったにせよ、その刻まれてゆく息子の五体を観ることは堪えがたい苦痛であったろう。風呂上がりのマリアというやや呑気すぎる姿態に、ある峻厳さを加えなければ福音は蘇って来ないであろう。

春キャベツ楽しいことをしてゐます   森さかえ    
早舩煙雨 突き抜けた明るさが楽しい。余程人生を謳歌していないと「してゐます(うぃます)」とは言えない。句の主人公は畑の虫だろうか。いや、春キャベツは銚子や三浦半島等でも採れるそうなので、経営学をサーファー仲間に説きながらジープに乗っているBBQオヤジかもしれない。
しまもと莱浮 これは宣言だろう。以後私が行うことは全て楽しいことであると。冬来りなば春遠からじの精神で耐えてきた苦しみ。それももう、思い出さずにおこう。春の暖かさに身を委ねて生きる。なんて楽しいのだろう。
誰かが言っていたな。「痛みは生きているしるしだ」と。

青き踏む重心低くア行から    森 誠     
松永みよこ 今年の男の子の名前の漢字一位は「碧」だとか。今に限らず昔から青は人気が高い色だ。「重心低く」と詠んだところで、実際に「青」を「踏む」ポーズがありありと目に浮かぶ。幻想的なイメージの季語とのギャップが痛快。もしかして「青き」は「青木」(さん)?
加能雅臣 「青き踏む」ことに随分慎重な姿勢だ。「重心低く」して、何かを警戒しているのだろうか。「ア行から」とは、冒頭からやり直さなければ気が済まない理由があるということか。何度も同じことを繰り返す強迫観念かもしれない。戦争によるトラウマを想起した。

決戦の日の夫の皿に多めのトマト    内野多恵子   
小田桐妙女 夫と決戦するために嫌いなトマトを多くした。もしくは、夫の健康診断という決戦に備えトマトを多めにした。前者だと悪妻、後者だと良妻、とは限らない。夫婦には夫婦にしか分からない事情がある。傍目には喧嘩ばかりの夫婦も、実は仲が良かったりもする。
斎藤秀雄 ここでの《夫》にとっての《決戦》は、肉体的流血をともなうものというよりも、象徴的ないし隠喩的血の流れるものなのだろう。漫画やアニメの吸血鬼にとってのトマトジュースよろしく、血が、象徴性・隠喩性を介して《トマト》の明るさに転じている点が眼目。

雲の峰前見て見ない後ろ指    江良 修     
早舩煙雨 旅行の最中だろうか。後ろ指は、存在を知らなければなんてことはない。しかしこの句では、背後に後ろ指が在ることを知っている。または、罪悪感が生んだ想像上の指か。実は独りで、自分の心の指なのか。雲の峰が多量の雨を含むように、抑え切れない不安・冷や汗が続く。
未補 はるか遠くに聳える《雲の峰》を眺めているのだろう。遠くをみていると、近くのものが目に入らないことはよくある。背後から自分を指す《後ろ指》なら、なおさらだ。しかし、他人の陰口に振り返るより、雄大な夏の雲を眺めているほうが、よほど有意義で、健やかだ。

セロファンに包まれてゐる夕薄暑  小田 桐妙女   
加能雅臣 光の眩しさが柔らぎ、鮮やかな色彩はやや角が取れて、心地良い場所がつくられている。「セロファン」の、汗ばんだ皮膚に貼りつく感覚や耳に触る音が、不快でありつつも、その不快さも合わせて懐かしい。透きとおった繭の中の、かりそめの休息が豪奢です。
櫻井天上火 季節が移るころ、あるいは昼と夜が入れ替わるころ、世界に薄い膜が張ったような奇妙な状態を感じるとることがある。世界が異化してしまう瞬間を切り取って、非俗な「セロファン」でその神話的瞬間を表現した点に面白さがあるように思われる。

桜蕊ふる悪戯のように降る    男波弘志
阪野基道 風雅な桜花の掉尾を飾るのが「桜の蕊ふる」。
桜吹雪のように眼を奪われることもなく、人知れず降る
蕊を悪戯と捉えるのも、また風雅の趣。酒にかまけた宴
席の後、小庭の桜から蕊が落ちたのを眺め、大きくため
息をついての一句、のようだ。この境地、いかにも身近。
しまもと莱浮 いくら懸命に生きようとしても残ってしまうのが後悔。次々に地面を赤く染めてゆく桜蕊は、傷口に擦り込まれる塩。度の過ぎた悪戯だ。美しさに足を止めたのではない。君ももう終わりだと言われた気がして一歩も進めなくなったのだ。

ホトトギス僕は今立てない  柏原 喜久恵   
早舩煙雨 僕は今立てない、という言葉を前にしたホトトギスの囀りは、象徴としては近すぎるからこそ遠いものであるという不思議な印象を受けた。「今」の字に、限定や祈りが含まれている為だろうか。具体的な景を詠まれた句と察したが、無駄の無い律・言葉に強い普遍性を感じる。
松永みよこ「僕は今立てない」のフレーズが痛切で心に突き刺さる。ホトトギスというから、晩年、病に伏した正岡子規の発言とも思えるが、そうと限定しない方がよい。「今」立てない状態にある大勢の「僕」。小学五年の頃、自分のことを「僕」と呼んでいたのを思い出した。

四人のうちの一人が落椿をもらす   加能 雅臣    
小田桐妙女 四人という人数が引っ掛かる。四人だと二対二で引き分けもあるような気がして、一人にはならないかもしれない。落椿には秘密が隠されている。それを四人は知っていて、一人だけ裏切る。一人だけというのは勇気がいる。「四人」は、「よったり」と読むのもいい。
斎藤秀雄 なぜ紅椿や白椿でないのかも謎だが(拾った《落椿》をもらしたのか)、見せ消ちにされた残りの三人が不気味だ。非在の空間におけるインスタレーションのようでもあり、忘れ難い夢のようでもあり、そこには独特のぬめりのある現実感が充満しているように感じた。

世界樹に消せないことがあると雪  しまもと莱浮   
阪野基道 世界の中心である世界樹にできないことがあ
るのか。深く根を下ろした先の黄泉の国から穢れが地上
に吹き上がってきたのか。結語の雪がその浄化を担うこ
とになり、句全体を白く覆う。虚偽のない世界を保つに
はこの方法しかないようだ。よどみのない雪が、魅力的。
男波弘志 自分がよく逢いにゆく霊樹がある。樹齢千三百年の樟の木である。この長大な時間の中で何を見、何を忘れてきたであろうか。腰の曲がった老婆がすがるような大声で「樟の神様、私の腰を直して下さい」と言った。そのとき老婆の腰は真直にはならなかったが、何か太い芯棒が降りてくるのを見た。

夏休みしげみのにおいにさそわれる  藤本 こう
未補 「ひと夏の〜」という慣用句めいた言い回しがあるが、《夏休み》はなにかに誘われやすい期間なのかもしれない。しかし、数ある誘惑のなかで語り手は《しげみ》に惹かれているという不思議。季重なりにすることで、より夏の深みへ、身も心も囚われていく心地がする。
しまもと莱浮 夏休みは暑いし、長い。理性も知性も緩んでしまう。解ってくれとは言わないが、正直に認めてしまう訳にもいかない。茂・匂・誘をひらがなで書くのが精いっぱいである。それは今年のことかもしれないし、幼い頃の出来事かもしれない。

桃吹くよう地雷踏むよう行け女  加藤 知子    
松永みよこ 一体「女」って何だろう?誰だろう?その実態たるやあまりに多様で一向に答えが出てこない。この句に登場する「女」は私を緊張させる一方で鼓舞する存在だ。「桃吹くよう」な繊細な心と「地雷踏むよう」な勇敢さのうち一つでも、いややっぱり両方欲しくなる。
斎藤秀雄 《桃吹く》ことと《地雷踏む》こととの等置による、ニュアンスの相互浸透に詩が宿った。《地雷》のように弾けつつも、どこか華やかであること。《桃》(ここでは棉のこと)のように柔らかくも、どこかドライであること。傷つくことを恐れない女たちへの激励。

春雷に舌うごかせば人違い    未 補       
加能雅臣 〈雷速〉と云うものが一句を貫いている。〈神速〉と言い換えてもいい。「春雷」と連続するこの「舌」のうごきは、地殻の運動と似る。天地創造の最中に放り込まれた気分だ。最後に「人」が生まれ、たちまち理性を持ったところで我に返った。始原の混沌を見た。
櫻井天上火 知り合いを見つけたかと思って口を開くと全然違う人だった、という句に見える。しかし「春雷を」がそれを許さない。この語が「舌うごかせば」と「人違い」を切っている。そうなると「人違い」も単なる見間違いではなく、別なる存在の発見を指しているように見えてくる。

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3月に入って直後から、
自分の人生において
想定外のことに直面していて
ブログも滞りがちですが、
しばらくは「We」の記事を掲載していこうと思います。

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口座名義 We社


血液検査も
腹部エコーも
腫瘍マーカーも
なんにも役に立たなかった!!
自分のことではないですが・・・・
息子はその専門の外科医でも
近くにいないとなかなか~ですねー




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