中庸の書物は、どうして出来たのであろうか。
それは、子思(孔子の孫)が大道の学問の伝統を失われることを心配して、作られたのである。
遠くは、上古の時代より、神人や聖人の道徳や崇高な地位にあった人物が、天命を受けて、至極の道理を打ち立てたのである。
このようにして、道統が今日につたえられて来た。
現在でも、十六字の真伝の中で、「允(まこと)に、厥(そ)の中を執れ」という真理が伝えられて来た。
この真理は、昔の中国の帝王である、尭帝が舜帝に伝えた言葉であり、更に「人心危うく、道心微かなり。惟れ精、惟れ一」を加えた。
この真理は帝舜が禹王に伝えた真理である。
舜帝の一句は、道の真髄を述べ尽くしている。
その内容は至極の道理をすべて抱合している。
更に、舜帝は、「人心危うく」などの、十二字を加えた。
この真理をまとめてみると、人の心のはたらきは、虚霊にして、いつでも、出たり入ったりして、時間の制約が無く、また、その来源を知る事も出来ないのである。
どうして、一つの心を人心と道心の二つに分けるのであろうか。
人心とは、後天的な気質や考え方及び、欲望や執着などを指す。
道心は、天理、天命より来た、良知良能(孟子に、学ばずして能くするものは、良能なり。慮らずして、知るものほ良知なり。)や誠心を指すのである。
そこで、いかなる賢人といえども、肉体がある以上、どうしても、人心から免れることは、難しい。
そこで、人心危うくして、不安であると言うのである。
また、道心は、微かにして失いやすいが、人間である以上、誰でも肉体や、気質や欲望などを有しており、そこで如何なる賢人と言えども、多かれ少なかれ人心がある。
また、如何なる愚者といえども、天理、天命から来た、良知良能を備えていない者は無いのである。
"人心"と"道心"のこの二つは、みな、心の内より起こって来たものである。
人は若し、人心(欲望)を克服する事が出来なければ、天理、天命から、来た道心も、最終的には、私欲の人心に打ち勝つことが出来なくなる。
よって、人心と道心の二者の間において、厳しく省察(自分の内心の一念が、天理であるか、人欲であるかを反省すること。)し、この一心の天理、道心の間に、いささかも不純な雑念や私欲を介入させないようにし、必ず天理天命の本性を専一に堅持し、これより、離れる事がないようにするのである。
そうすれば、天理天命から来た道心は、常に一身の主宰となり、私利私欲の人心は、常に道心に服従するようになるのである。
そうすれば、危険な人心も道心に従えば、安泰となり、微かな道心も明らかに顕現される事になる。
人間の日常の現行には、常に過不及(やり過ぎと、不足の過失)の過ちを犯しやすいのである。
中国の昔の尭帝、舜帝、禹王などは、天下の聖人であり、この天下の最高の権威者が伝えた教えこそは、最高の真理である。
これより、以後、聖人から聖人へと真伝は伝わり、これを具体的に言えば、殷朝の湯王や、周の文王、武王、これらの王者や大臣の皋陶、伊尹の傳説、周公、召公、これらの人物は、みな道統を継承して来た。
更に民間では、孔子に伝わり、この道統を継承して来て、後世の人の為に道を開いた。
その、功徳は尭、舜をしのぐものがある。
更にその道統は、顔氏(顔回)、曾氏(曾子)に伝わり、それより、子思に伝わった。
この時代は、修道の学問は、孔子の時代に比べると、だいぶかけ離れて来た。
更に異端の学説が横行し、子思は時間が経つにつれて、道統の真伝の流失する事を心配して、始めて中庸の書物が出来上がったのである。
これらが、道統の真髄を後世に伝えたのである。
それより、孟子に伝えられ、更にその道統が発揚されたが、孟子の死後、この真伝は、しだいに埋没し、真伝は流失するようになった。
後に、宋の時代に程氏兄弟が現れ、千数百年にわたって、断絶していた道統の真伝が再び復活したのである。
天の命ずるをこれ、性と謂い、性にしたがうをこれ、道と謂い、道を修むるをこれ、教えと謂う。
道は須臾(しゅゆ)も離れる可(べ)からざるなり。
離れるべきは、道に非ざるなり。
是の故に君子その睹(み)ざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐懼す。
隠れたるより、見るるは莫く、微かなるより、顕なるは、莫(な)し。
この故に君子は、その独りを慎むなり。
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
発して皆節に中(あた)る、これを和と謂う。
中は天下の大本なり。
和は天下の逹道なり。
中和致して、天地位(くら)いし、万物を育す。