玄徳道

道を語るブログです。

太乙北極真経演義道1。

2022-02-25 21:22:00 | 道院

太乙北極真経は、至聖先天老祖自体であり、当体である。

老祖の弟子は、これを老祖の御神体とする。たぶん。

現在、ウクライナは、孤立無縁となり、大国ロシアから侵略されております。

戦争は独裁者の自我の肥大である、その結果である。

神々は何故、天罰覿面と成さないのであろうか。

なんせ神は、自然なり。自然を以って道とするのみ。

その神に近い存在に善と悪がある。聖神、邪神。

いずれにしても、劫を化し、悪意を消すのが、老祖の弟子の使命である。

この世に争がある限り、坐し、誦経し、カルマを化す。

孤立無縁。ああ、なんて可愛そうなのであろう。

力無き正義は無力なり。

されど、道は無力の中にある、本当の世界。

故に、此処に北極真経演義の前書きを此処に写す。

「坐」は、古来より、あらゆる求道者によって、悟りへと導く重要な方途として認識され、そして修練されてきた。

しかしながら、その教えは、流派によって、大きく異なっている。

例えばある派は、内なる修養を重視するが、他の派は、外的修養を重視する。

更に教義は、世代間で受け継がれ際にも質的に変換してしまうので、結果的に坐法の標準化はなされぬままであり、求道者は、的確な方法を失ってしまっているのである。

その意味から、半世紀以上も以前に、濟南母院にて、至聖先天老祖が、静坐の原理を詳らかに解説した、「北極真経」を授かった紅卍字会の修方達は、極めて幸運なのである。

しかし、それによって益を受けるのは、漢文を解する人々に限られてきた。

日本語版が出版されはしたが、それでも、世界の多くの人々がその益を受ける事は無かった。

そこで、癸丑年十二月二十二日(1974年1月4日)に韋達氏が注釈をつけて、英訳をするという任務を担うことになり、「太乙北極真経演義」(永遠なる真理と究極的実相に関する北極真経の解説)という題名がつけられる事になった。

韋達氏は即刻その作業に取り掛かった。

そして昼夜をおかず可能な限りの勤勉さと誠意をもって作業をした。

この困難な仕事の完遂するまで、まさに寝食を忘れて没頭しつづけ、それに対して同氏は永遠で至高な益を得るに至った。

即ち世界中の人々をしてこの「真経」を理解せしめ得る端緒を設えたのである。

この「真経」は、地球上のあらゆる生命を永遠なる至福の域へ、済度と救済の源へ渡河せしめる貴重な筏と見做されている。

済度とは、人の魂と徳性の精製が、その人の本来の質、霊的生命、先天不滅のエネルギー、創造的叡智を先天の炁胞の状態へと回帰せしめることを意味している。

救済とは、人の自己修養の結果として生じる輝く光、活発な叡智の大いなる統合が、人と神から惨禍を取り除く事を意味している。

この救済において、明白なことは、正しくない人の心を救って、再び正しく設えることである。

それを達成するために、個々人は静坐の修練に耐え抜き、肉体的物質を変容させ、あらゆる後天的誘惑と因縁を断ち切らなければならない。

この達成は偉大なることである。

何故偉大なのか。

それは、済度と救済の効果が、将来において、際限なく拡がり、多くの人々、それも数えるに余りある多数の人々が災禍から、救済されるほどな高まるからである。

例をあげて、比較してみよう。

一般的な言い習わしによると「一つの生命を救うことは、七層の仏塔を建てることを凌ぎ、善意は、八千の善行功徳を生む。」と言うことだが、多くの生命を救うことと、たった一人の命を守る事の間に優劣はない。

また、たった一人の善意の転向は、人と神に大惨禍を回避せしめる大いなる益と比較する事はできない。

将来における、救済と済度が、際限なく計り知れないと言うのは、正しくないことであろうか。

さて、我々は、此処に「真経」の英訳を携えているが、これによる、人類の救済、済度のための有形無形の益は、極まり知らないものであろう。

「真経」は、静坐を主題として扱っているので、「真経」の学習は、それをよりよく理解することを欲するのであれば、静坐と共になさなければならない。

疑問や困難を生じた場合は、その解答を静坐と、疑問や困難が存する、「真経」の経文との関連に、ついて掘り下げて求めるべきである。

このようにして、「真経」のより深い意味内容を把握することが、容易となるのである。

それを理解し、説明するのが、不可能に見える難解なくだりについてさえ、静坐を通じて理解すべきなのである。

この事は、自然科学の学習における科学理論の実験的検証と同様である。

「真経」の完璧な理解は、それを通じて直観的な理解が起きる静坐の修養なくして不可能なことである。

「真経」の主題が静坐であるから、「真経」を理解せんとする者は、静坐の修練をも、またしなければならない。

然しながら、静坐の目的とは、静坐をする事ではなく、それが「道」の開眼へと導く経路であることにある。

したがってこれは、求道者全てにとって必須要件なのである。

もし、ある者が「道」を培おうとしても、静坐の修練をしないのであれば、道の原理について、理解することはできない。

もし、ある者が静坐をするが、「道」を培うことがなければ、静坐の真価や、静坐の最中に起きる、秘的な変性の過程を掴むことができず、最大の益を導く、最も自然な静坐の状態へと到達することはできない。

更に加えて人は、様々な、段階の理解を経ることによってのみ、静坐の目的が、自らの創造的叡智(霊)を磨くことであり、人類の災禍、惨禍を取り除くことであり、彼らを変容せしめ、救済する事にあることを悟るのである。

ということであれば、静坐の目的とは、「道」の目的と同じものである。

そこで、自己修養と「道」への究極の開眼に打ち込む事はなく、静坐することができ得ようか。

つづく。



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