元曉は、唐の時代、新羅から中国へ行って、仏教の師匠とめぐり逢った。
そこで色々な艱難や辛苦を舐めた。
ある時、本人が修業のために、地方に出て行脚をして、真夜中に郊外で野宿をした。
夜中に喉が渇いたので、水を飲もうとしたが、水が無いので、手探りで何か飲み物が無いかと、探した。
瓦礫や廃墟のなかにたまたま、僅かな水があった。
そこでこの水を一気に飲んで、その渇きを癒した。
その水は、甘露水のように、非常に美味しかった。
ああ、生命の水なり。
翌日、明るくなって見ると、この水は頭蓋骨の中に溜まっていた、汚水であることに、気がついて、たちどころに、吐き気を催したのである。
そこで元曉が悟って謂うには、三界(前世、今世、来世)は、唯、心の中にのみあり、多くの法は唯心が万物を認識する働きによって、分別心があらわれてくるのである。(鬼雷が述べる。要は好みの世界であります。それを人欲と述べます。姿形が良い、男人や女人に、親切にされると、それに対する人の心が鰻登りとなり感謝もする。醜い、男人や女人から、親切にされても、対して心が動かされず、心が高揚しない。人は形や物しか見えず、真なる魂を観れない。人の真実を悟れない。)
それは、美と醜、善と悪、是と非などの相対的な考え方は、自己中心の分別心によるのである。
ましてや、昨日飲んだ水は、甘露水の様に美味しかった。
されど、頭蓋骨を見れば、反吐の水に変わり、美味しく吸収した身体から、吐き気を催し、胃液を沢山吐いたのである。