仏教における生きた菩薩の教訓は枚挙にいとまがない。
それは、俗世間から出家した人もおり、または、居士の身分で修道する人もおり。または、官吏の身分で修道する人もおり、これらの人達の行動は、我々の修道の模範となるのである。
例えば、中国の唐の時代の龍蘊居士は大富豪であり、家族全員が修道に志していた。
明心見性を目的に修道していた。
彼らは、自己の家にある全ての財産を船に積んで揚子江の中ほどまで行って、この船ごと破壊して全財産を水に沈めた。
彼のこれらの行動は、後世の人に一大教訓を残した。
その当時、ある人が彼に尋ねた。
龍さん、どうしてこれらの全財産で貧しく困っているひとを救わないのですか。
彼が言うには、全ての事は煩雑で多いより、少ない方がいい。
更に少ないより、無い方が良いと答えた。
そこで、一体何人がこの答えを理解したであろうか。
また、今後の生活はどうするのですかと。
彼は、これに対し、私は毎日草履を作ってそれを売り、生活をし、心中には、少しも未練やこだわりがありませんと答えた。
これこそ、真に自由自在を得た人と言うことが出来る。
そこで金があると言うことは、それだけ心の負担となり、この金をどう使うか、心を悩まし、気を使う。
故にこれらの財産を放棄することによって、心の負担が無くなり、心を悩ます気を使う事もなく、このように無駄な努力をせず、心身ともに軽快になるのである。
また、龍居士は高齢となって、ある日、彼は、突然、私は帰ると言い出した。
そこで娘に尋ねた。
今何時ごろか、太陽を見て来なさい。
娘は、父親が往生するのを知って、また時間が早いと言ったきり、娘は自身が立ったまま、先に往生した。
そこで龍居士は、この娘はとんでも無く、私に迷惑をかけた。
もし、私が往生してから、二、三日に家庭内の事を全部処理してから、往生するのが順序であるのに、どうして、先に行くのかと言った。
そこで娘は父親が往生するのを知って先に往生した。
このように、全てを放下すれば、生死も自由自在である。
このような人こそが、完全に自然に帰り、また、本性に帰ったのである。
勿論、これらの人は普通の人でな無く、それこそ菩薩の再来であり、これらの事実は、言葉で表現することなく、生死の間に於いて自由自在であると言う事を事実を以って、我々に教えてくれている。
そこで帰ると言ったら、すぐ帰り、少しも未練を残さないのである。