ダルマさんの教えの中に、昔から今日に至るまで、道(心)を修める人は数多くいるが、直に悟りを開いた人は、極めて稀であるのは、どうしてであろうかと、疑問を提出されています。
そこで、その原因を三つ挙げております。
その中のどれ一つとってみても、我々の最も犯し易い過ちであります。
その第一は、近い所(身近なこと)を捨てて顧みず、遠いところに道を求めているのであり、第二は、また直実なものを捨てて、偽物に(一時的な仮のもの)に従い、第三には内(心)に、道を求める事を知らず、ただ、外にばかり道を求めている弊害について述べています。
孟子にも、「求めれば得られる」とありますが、それは、自分の内にあるものを求めるからであります。
また、求めれば得られ、捨てれば、これを失う。
自分自身の中にあるものは、求めれば、我が身にとって益となる。
これに反し、外にある財貨や名誉・地位・権力等の富貴を求めようとすれば、そこには、その人の能力や、いろいろな手段方法があり、また、人の天性の運命もあり、また、目上の人の引き立てや、友人達の協力も必要性である。
そこでこれらを手に入れようとしても、なかなか思うようには、いかないし、また、例えこれらの富貴が手に入っても、逆にこれよって、身をあやまり、身を滅ぼす人も多いのである。
これを集約すれば、内に求めて、大きな益を得られるものを求めずして、求めるにしても、最も難しい、外にある富貴を求め、たとえそれが得られたとしても、一身の禍となるものを追求して止まないのであります。
また、六祖慧能禅師の言にも、「全ての福田(すべての福を生じるところの心の田地)は、皆、各人の心の中にあり、心の外に福田があるものではない。」とある。
そこで福の種子を植えるのも、禍の種子を植えるのも、すべてが各人の心にかかっているので、すべて、内に求めていけば、感応して、通じないことはないのである。
そこで自分の内にある心に求めれば、ただ、心中の道徳仁義を得られるばかりではなく、身外の功名富貴もこれを求めずして自然に得られるのである。
これが即ち「求めれば得られる」というところの直の解釈であります。
また、北極真経の守実の箴にも、我々が後天の世界に於て、実の物(有形の物)と認めている一切のものは、先天からみれば、虚にして、夢、幻のような一時的な現象にしか過ぎないのであります。
実と虚の二字は、先天と後天では、相反するもので、一般の人の迷いと悟りの根本は、多くがここに関わっているのであり、後天の虚儀(一時的現象)のみを求めて、先天の真実(永遠不滅のもの)を明らかにしていない事であり、それは正に多くの人が真実を捨てて虚偽におもむいているのであります。
更に孟子にも「道を爾きに在りて、これを遠きに求む」とあります。
このように儒教の真髄は端的に言って、「修身・治国・平天下」と説かれています。
その意味するところは、天下に太平の世を実現しようとすれば、国を治め、国を治めるためには、まず家を斉(ととの)え、家を斉えるには、まず身を修め、身を修めるには、まず心を正しくし、心を正しくするには、まず意(意念)を誠にするのである。
このように見てくると、最も身近な修道の極意は、自らの意念を誠にすることにある。
仙哲の言にも、鏡に対して、頭髪の乱れているか否かを憂うることなく、ただ、意念の誠であるか否かを憂いたのである。
そこで、修道の極意は「邪念を塞いで、誠に存する」の四字に尽きるのである。
また、鎮心経にも「これ(道)を内に求める者は必ず、その中(うち)を誠にす、その中を誠にする者は必ず、その外に形(あら)われる。内外の功侯は、表裏相通じるのである。」
それは、中庸にもあるように、世の中すべてのことは、みな、内に隠れているものが外に現れ、また、微かなものが明らかとなってくるのである。
そこで君子は、その玄妙なる道理を知っているので、内に隠されている微かな兆しや、意念がやがては、みな外に現れてくる事を知っている。
それ故に、見ようとしても、見る事が出来ず、聞こうとしても聞く事が出来ないところの、声も無く、匂いも無い、隠れている想念の世界(意念の世界)を慎むのであり、その故に君子は、独りを慎むと言うのである。
ここで言う、独りとは自らの心中の意念の世界、即ち想念の世界を指摘していると解されます。