玄徳道

道を語るブログです。

先天坐道雑記9

2022-02-19 20:01:00 | 私的考察
坐や瞑想とは、手段ではない。

何の為の手段などであろうか。

悟りに至る為の手段。


霊能や超能力を得る為の手段。

ははは。さらさら可笑しい。

偉大なる魂を持ち、それを顕現した人たちは、瞑想や修業に頼る事なく、初めから、その一端を持って顕現している。

瞑想や坐を悟りに至る「手段」として、修行するから、道を誤り、危険を犯し、挫折し、気を狂わすのである。

瞑想により、霊道が開けた、悟りが開けた、超能力を得たとか、すべて、妄想の自己満足の世界であります。

まして、それにより、金銭を得て、指導者となり、それを職業とすれば、必然と、金を得る、尊敬を受ける為の手段となってしまうだけの話しであります。

吾が先天坐とは、自然の坐なり。

そこに、多少の工夫は必要でありますが、全ては任運自然。

自然である故に、手段である事なく、悟りを求めず、無欲に徹するのみ。

そして、黙って、独りで慎み、坐るのみで御座います。

なんせ、損得なく、日々坐る。それだけの事で御座います。
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元曉法師と頭蓋骨の水道。

2022-02-18 19:30:00 | 道院
元曉は、唐の時代、新羅から中国へ行って、仏教の師匠とめぐり逢った。

そこで色々な艱難や辛苦を舐めた。

ある時、本人が修業のために、地方に出て行脚をして、真夜中に郊外で野宿をした。

夜中に喉が渇いたので、水を飲もうとしたが、水が無いので、手探りで何か飲み物が無いかと、探した。

瓦礫や廃墟のなかにたまたま、僅かな水があった。

そこでこの水を一気に飲んで、その渇きを癒した。

その水は、甘露水のように、非常に美味しかった。

ああ、生命の水なり。

翌日、明るくなって見ると、この水は頭蓋骨の中に溜まっていた、汚水であることに、気がついて、たちどころに、吐き気を催したのである。

そこで元曉が悟って謂うには、三界(前世、今世、来世)は、唯、心の中にのみあり、多くの法は唯心が万物を認識する働きによって、分別心があらわれてくるのである。(鬼雷が述べる。要は好みの世界であります。それを人欲と述べます。姿形が良い、男人や女人に、親切にされると、それに対する人の心が鰻登りとなり感謝もする。醜い、男人や女人から、親切にされても、対して心が動かされず、心が高揚しない。人は形や物しか見えず、真なる魂を観れない。人の真実を悟れない。)

それは、美と醜、善と悪、是と非などの相対的な考え方は、自己中心の分別心によるのである。

ましてや、昨日飲んだ水は、甘露水の様に美味しかった。

されど、頭蓋骨を見れば、反吐の水に変わり、美味しく吸収した身体から、吐き気を催し、胃液を沢山吐いたのである。
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根本誠乾師、有無自在道。

2022-02-15 20:47:00 | 道院

仏教における生きた菩薩の教訓は枚挙にいとまがない。

それは、俗世間から出家した人もおり、または、居士の身分で修道する人もおり。または、官吏の身分で修道する人もおり、これらの人達の行動は、我々の修道の模範となるのである。

例えば、中国の唐の時代の龍蘊居士は大富豪であり、家族全員が修道に志していた。

明心見性を目的に修道していた。

彼らは、自己の家にある全ての財産を船に積んで揚子江の中ほどまで行って、この船ごと破壊して全財産を水に沈めた。

彼のこれらの行動は、後世の人に一大教訓を残した。

その当時、ある人が彼に尋ねた。

龍さん、どうしてこれらの全財産で貧しく困っているひとを救わないのですか。

彼が言うには、全ての事は煩雑で多いより、少ない方がいい。

更に少ないより、無い方が良いと答えた。

そこで、一体何人がこの答えを理解したであろうか。

また、今後の生活はどうするのですかと。

彼は、これに対し、私は毎日草履を作ってそれを売り、生活をし、心中には、少しも未練やこだわりがありませんと答えた。

これこそ、真に自由自在を得た人と言うことが出来る。

そこで金があると言うことは、それだけ心の負担となり、この金をどう使うか、心を悩まし、気を使う。

故にこれらの財産を放棄することによって、心の負担が無くなり、心を悩ます気を使う事もなく、このように無駄な努力をせず、心身ともに軽快になるのである。

また、龍居士は高齢となって、ある日、彼は、突然、私は帰ると言い出した。

そこで娘に尋ねた。

今何時ごろか、太陽を見て来なさい。

娘は、父親が往生するのを知って、また時間が早いと言ったきり、娘は自身が立ったまま、先に往生した。

そこで龍居士は、この娘はとんでも無く、私に迷惑をかけた。

もし、私が往生してから、二、三日に家庭内の事を全部処理してから、往生するのが順序であるのに、どうして、先に行くのかと言った。

そこで娘は父親が往生するのを知って先に往生した。

このように、全てを放下すれば、生死も自由自在である。

このような人こそが、完全に自然に帰り、また、本性に帰ったのである。

勿論、これらの人は普通の人でな無く、それこそ菩薩の再来であり、これらの事実は、言葉で表現することなく、生死の間に於いて自由自在であると言う事を事実を以って、我々に教えてくれている。

そこで帰ると言ったら、すぐ帰り、少しも未練を残さないのである。






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根本誠乾師、嘘も方便道。

2022-02-14 20:58:00 | 道院
世間一般の人民が悪をなすのは、それは悪縁によります。

もし、我々が、この悪縁を断ち切れば。この悪は、消滅してしまのであります。


そこで、経典の中の一つの物語が説かれています。

それば、昔のある学者が、道で、一人の狩人にでくわました。

彼は丁度、兎の獲物を追いかけていたが、二股に別れた道で、兎を見失ってしまった。

たまたま、この学者は狩人に出会ったので、兎がどこの道から逃げたかと聞かれた。

そこで学者は兎が逃げた方向と逆の方向を教えた。

それによって兎の一命を救っただけで無く、狩人は殺生の罪を犯す事なく、動物と人の命を救ったことになる。

これは、嘘も方便であり、彼の心根は善良であり、悪い事をしようとしても、それは皆、失敗する。

我々は、生活の上において、多くの人と物に接触するが、もし、誤りを発見した時には、各人の知恵を持って、その誤りを指摘してやるべきであります。

そこで、人や動物の生命を救う上において、嘘も方便で、それらは、許されるのであります。
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根本誠乾師、温故知新道。

2022-02-12 22:52:00 | 道院
ダルマさんの教えの中に、昔から今日に至るまで、道(心)を修める人は数多くいるが、直に悟りを開いた人は、極めて稀であるのは、どうしてであろうかと、疑問を提出されています。

そこで、その原因を三つ挙げております。

その中のどれ一つとってみても、我々の最も犯し易い過ちであります。

その第一は、近い所(身近なこと)を捨てて顧みず、遠いところに道を求めているのであり、第二は、また直実なものを捨てて、偽物に(一時的な仮のもの)に従い、第三には内(心)に、道を求める事を知らず、ただ、外にばかり道を求めている弊害について述べています。

孟子にも、「求めれば得られる」とありますが、それは、自分の内にあるものを求めるからであります。

また、求めれば得られ、捨てれば、これを失う。

自分自身の中にあるものは、求めれば、我が身にとって益となる。

これに反し、外にある財貨や名誉・地位・権力等の富貴を求めようとすれば、そこには、その人の能力や、いろいろな手段方法があり、また、人の天性の運命もあり、また、目上の人の引き立てや、友人達の協力も必要性である。

そこでこれらを手に入れようとしても、なかなか思うようには、いかないし、また、例えこれらの富貴が手に入っても、逆にこれよって、身をあやまり、身を滅ぼす人も多いのである。

これを集約すれば、内に求めて、大きな益を得られるものを求めずして、求めるにしても、最も難しい、外にある富貴を求め、たとえそれが得られたとしても、一身の禍となるものを追求して止まないのであります。

また、六祖慧能禅師の言にも、「全ての福田(すべての福を生じるところの心の田地)は、皆、各人の心の中にあり、心の外に福田があるものではない。」とある。

そこで福の種子を植えるのも、禍の種子を植えるのも、すべてが各人の心にかかっているので、すべて、内に求めていけば、感応して、通じないことはないのである。

そこで自分の内にある心に求めれば、ただ、心中の道徳仁義を得られるばかりではなく、身外の功名富貴もこれを求めずして自然に得られるのである。

これが即ち「求めれば得られる」というところの直の解釈であります。

また、北極真経の守実の箴にも、我々が後天の世界に於て、実の物(有形の物)と認めている一切のものは、先天からみれば、虚にして、夢、幻のような一時的な現象にしか過ぎないのであります。

実と虚の二字は、先天と後天では、相反するもので、一般の人の迷いと悟りの根本は、多くがここに関わっているのであり、後天の虚儀(一時的現象)のみを求めて、先天の真実(永遠不滅のもの)を明らかにしていない事であり、それは正に多くの人が真実を捨てて虚偽におもむいているのであります。

更に孟子にも「道を爾きに在りて、これを遠きに求む」とあります。

このように儒教の真髄は端的に言って、「修身・治国・平天下」と説かれています。

その意味するところは、天下に太平の世を実現しようとすれば、国を治め、国を治めるためには、まず家を斉(ととの)え、家を斉えるには、まず身を修め、身を修めるには、まず心を正しくし、心を正しくするには、まず意(意念)を誠にするのである。

このように見てくると、最も身近な修道の極意は、自らの意念を誠にすることにある。

仙哲の言にも、鏡に対して、頭髪の乱れているか否かを憂うることなく、ただ、意念の誠であるか否かを憂いたのである。

そこで、修道の極意は「邪念を塞いで、誠に存する」の四字に尽きるのである。

また、鎮心経にも「これ(道)を内に求める者は必ず、その中(うち)を誠にす、その中を誠にする者は必ず、その外に形(あら)われる。内外の功侯は、表裏相通じるのである。」

それは、中庸にもあるように、世の中すべてのことは、みな、内に隠れているものが外に現れ、また、微かなものが明らかとなってくるのである。

そこで君子は、その玄妙なる道理を知っているので、内に隠されている微かな兆しや、意念がやがては、みな外に現れてくる事を知っている。

それ故に、見ようとしても、見る事が出来ず、聞こうとしても聞く事が出来ないところの、声も無く、匂いも無い、隠れている想念の世界(意念の世界)を慎むのであり、その故に君子は、独りを慎むと言うのである。

ここで言う、独りとは自らの心中の意念の世界、即ち想念の世界を指摘していると解されます。


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