今回はけっして内容は易しくはないのですが、比較的平易な文章だったこともあって注釈としてとくにつけ加えることはありません。ただ、たとえば、Ces souvenirs existaient encore...など、複合過去・半過去などの時制の使い分けには気をつけて下さい。
[試訳]
決定的な忘却
量と持続において生じるこうした部分的な忘却とは別に、もうひとつ別の問題がある。事実や人物、あるいは生活の断片などは、私たちの記憶から完全に消え去ることがあるのだろうか。最初に忘却と、そもそも記憶さえされないことを区別しておこう。私たちが経験するたくさんに物事や、そこに立ち会ったいくつもの出来事、たまたま隣り合った様々な人々は、長きにわたって私たちの記憶に刷り込まれることはなかった。本当の意味で記憶されなかったそれらを、私たちは忘れることもなかったわけだ。一方ある期間記憶にとどめていたけれども、今はもう私たちがそれらを思い出せないとき、それを忘却として語ることは許されるだろう。けれどもその思い出の存在を証明することは容易ではない。というのも、私たちは思い出のその中身を忘れてしまったのだから。ただ間接的な証拠が、写真や外的な助けを借りて与えられるのみだろう。やがて想起される可能性がまったく失われるまでは、そうした思い出は私たちの中に存在する。聖アウグスティヌスが書いているように、私たちは忘却の記憶は持っているのだ。
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ウィルさん、またお時間の許す限りでおつき合い下さい。shokoさん、難しいと感じられたとのことですが、訳文を拝見する限りは、意味のちゃんと通るものとなっていました。
次回は、p.223 sa re'surgence. までを読むこととしましょう。24日(水)に試訳をお目にかけます。
ところで、東大の教育社会学の本田由紀さんから紹介されたのですが、東京造形大学の学長となった映画作家の諏訪敦彦さんの式辞が見事なものでした。以下で読むことが出来ます。
http://www.zokei.ac.jp/news/2013/001-1.html
ぼくも、金曜日初めてお目にかかる1年生の授業で、さっそく諏訪学長の式辞を紹介することにします。
Shuhei