[注釈]
*l'autre, e'phiphanie dont le support est en de'finitive Dieu...: レヴィナスは他者の「顔」に、神聖な、近づくこともままならない他性alte'rite' の顕現を見るのですが、そうした経験は、究極的には「全き他者」としての神の顕現に支えられていると考えていました。
* ce paradoxe d'une diffe'rence identique : この言葉を導く例示(彼女と私が山間の暮れなずむ牧草地の風景を眺めている)は、ぼくもあまり説得的ではないと感じました。ただ、バディゥーは、二人の独立した主体が、一つの夕闇迫る風景を生きているという出来事、二つにして一つというを「逆説」を強調したかったのだと思います。
[要旨pp..26-29]
愛について哲学的には主に三つの捉え方があります。ひとつは、ロマンティックな愛の概念。それから、愛を二人の個人間に結ばれた契約と捉えるもの。そして愛など所詮幻想に過ぎないとする懐疑論。
私は、愛は、この世界を二人の差異から生きようとする試みであると考えます。二人の間に横たわる差異から、吟味し、実践し、生きられた世界とはどんなものであるかを問う、あるいはそうして世界を構築する試みだと思うのです。
レヴィナスの他者の経験は、それを究極において裏付けるのが「全き他者」としての神である点において、私の考える、ありのままの愛の経験とは異なります。
私が考える愛とは、この現実世界の内部における出来事です。自明な生存や利益をただ求める方向からはずれた視点から、ひとつの世界を構築しようとする試みです。そのとき愛は世界の誕生に立ち会う機会であり続けるのです。
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Akikoさん、masayoさん、Mozeさん、要旨ありがとうございました。
結局<<Eloge de l'amour>>、一章、二章と読み通してしまいましたが、いかがだったでしょうか。これはCafe' Voltaire という哲学者への聞き語りをまとめた叢書の一冊でした。また機会があれば同叢書をふたたびテキストにしたいと考えています。
さて、次回からはもう少し浮き世に直接かかわった文章を読むことにしましょう。この週末までにはテキストをお手元にお届けします。Shuhei