[試訳]
あるいはこれは罪と罰の物語なのだろうか。そんなことはない。ドストエフスキー流のこの二つの観念は、ここではまったく場違いだ。それでも、カフカ研究者の間では、それらが『審判』の主要テーマだと考えられて来た。カフカの親友、マックス・ブロートは、隠された重大な過ちがカフカの中にあることを疑ってはいなかった。ブロートによるとKは「人を愛することが出来ない Lieblosigkeit」罪を負っていた。同様に、こちらも著名なカフカ研究者エドワード・ゴールドステュッカーもKに罪を認めている。「なぜなら彼はその生活が機械化、自動化、疎外化されることに甘んじていたから」であり、それによって「あらゆる人間がそれに服さなければならない法、私たちに人間的であれと命じる法に背いていたからである」。
しかしまた、もっとしばしば目にするのは(私にはさらにバカバカしく思えるのだが)、まったく逆の解釈、つまり、カフカにオーエル的な要素を見るものだ。それによるとKは、時代を先取りした「全体主義」の権力の手先によって迫害されていることになる。それは例えば、1962年オーソン・ウェルズによって映画化された作品の場合であろう。
ところで、Kは無垢な存在でも、罰せられるべき存在でもない。そうではなく、彼は自責の念に駆られているculpabilisé男なのだ。辞書にあたってみると、動詞culpabiliserは1946年にはじめて使用され、名詞の方culpabilisationはもっと遅く1968年が初出となっている。これらの言葉が最近生まれたことを考えると、そうした言葉はありふれたものではないことがわかる。私たちがそれによっ思い知らされたのは、私たちひとり一人は(筆者自らも新語で遊ぶことを許してもらえば)自らを責めることができるculpabilisableのであり、そのことが人間の条件の一部であるのだ。弱いものを傷つけてしまったのではないかという良心の呵責であれ、自分たちよりも強いものとの摩擦を怖れる臆病心からであれ、罪責性はつねに私たちとともにある。
カフカは人生の問題について抽象的な思弁を述べることは決してなかったし、理論を考え出すことも、哲学者の役回りをすることも好まなかった。カフカはサルトルとも、カミュとも違う。カフカが人生を見つめると、それがたちまち幻想に、詩に、散文詩になるのだった。
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misayo さん、Akikoさん、Mozeさん、midoriさん、それぞれに正確な訳文ありがとうございました。今回も、また少々長かったですね。つい欲張り過ぎます。
前回にひき続き、ぼくから何も付け加えることはありません。試訳をご覧になって、疑問に思うところがあれば、またお尋ね下さい。
さて、何回か前に水野和夫と白井聡の対談をここでご紹介しました。そのエコノミストというか、経済史家の水野氏の話題作『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)を遅ればせながら読みました。評判に違わず、大変読み安く、なおかつとても示唆に富んだ論考でした。
同作の前半は、「利子率」の変動から、イタリア都市国家からはじまった資本主義社会の変遷の歴史を明晰に跡づける内容となっています。その資本主義の本質は、簡単に言うと、「周辺」で安く仕入れ、「中心」で高く売るというシステムですが、
「資本主義は「周辺」の存在が不可欠なのですから、途上国が成長し、新興国にて転じれば、新たな「周辺」をつくる必要があります。それが、アメリカで言えば、サブプライム層であり、日本で言えば、非正規雇用であり、EUで言えば、ギリシアやキプロスなのです。二一世紀の新興国の台頭とアメリカのサブプライム・ローン問題、ギリシア危機、日本の非正規社員化問題はコインの裏と表なのです。」(p.42)
文字通りグローバルに、地球規模に広がってしまった資本主義は、こうして「周辺」を無理矢理ひねり出さなければならない段階に達していて、実は、もうその寿命は尽きているというのが本書のテーマです。その延命を無謀に図り、さらに大きな危機を招かない叡智こそが今本当に必要であること。そのことが大変説得力を持って説かれています。是非一度手にとってみて下さい。
さて、テキストは残り少なくなりましたが、クンデラの文章をつぎは最後まで読むことにしましょう。そのあと、勝手ながら夏休みとさせて下さい。23日(水)に試訳をお目にかけます。Bonne lecture ! Shuhei