フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

ル・クレジオ「ニースに、痛みと怒りとともに」

2017年07月16日 | 外国語学習

 先日14日金曜日は、もちろんLe 14 juillet でフランス革命記念日なのですが、同時に昨年同日に起きた、86名の方が轢き殺されたニースの惨劇から一周年にあたる日でもありました。この地では午前中から様々な追悼式典が行われたのですが、以下に拙訳を掲載した、昨年同月19日に発表されたル・クレジオの文章が、その式典の中であらためて朗読されました。

 ル・クレジオという作家は思入れのある文学者ですし(この教室でも何度か教材として彼の文章を読みましたね)、何よりもニースはぼくにとって、パリ近郊の町とともに、忘れ難い経験を積んだ土地です。そんなわけで、ここに拙訳を試みて見ました。

原文は以下で読めます。

http://www.lepoint.fr/societe/le-clezio-a-nice-avec-douleur-et-colere-19-07-2016-2055411_23.php#site

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ル・クレジオ 「ニースに、痛みと怒りとともに」(Le 19 juillet 2016, Le Point)

 

 私はニースで生まれ育ちました。私がニース以上によく知るところは、多分ほかにはありません。この都市のどの通りも、どんな町も、どんな外れも知っています。それがどこに位置するかもわかっていますし、かつてはそこに足を運びもしました。そこのどんな細部も、それが確かにその場所であり、他のどの場所でも起こりえない、ほんのささいなことも知っています。プルムナード・デ・ザングレは、私のお気に入りの場所ではありませんでした。私はその界隈の出身ではありません。そこは私には、あまりに美しいし、あまりに豪奢なのです。私が好きだったのは、子供時代のことですが、漁船のマストであり、地中海の向こう側からやってくる、赤ワインや血の色のコルクを積んだ、古びて錆びた運搬船でした。それからもちろん、コルシカからやってくるフェリー。当時は観光客や自動車の他に、牛や馬も積んでいました。ラ・プロム。ニースの人々は、ちょっと気取りながらも親しみを込めてそう呼ぶのですが、それは散歩道というよりは、むしろ浜辺で、二人連れのホットパンツを履いた女の子たちがそぞろ歩き、男の子はズックをつっかけ、ペダロが駆け抜ける。地下にはピンポン台とともに、小さなバーカウンター。17歳だった私は、今となっては信じられませんが、そこに通っては、観光客を気取っていました。

 それでもラ・プロムにも歴史があったのです。あの著名なイギリス人たちの作った歴史が。19世紀中ばサボワ公国の時代に、ニースに暮らす人々の貧しさに心動かされたイギリス人たちは、カゴいっぱいの砂利とパンを交換して、この地の人々を助けようとしたのです。イギリス風の見事な計らいです。その慈善に屈辱が加わることはありませんでした。その砂利は、海沿いの道路の建設に活かされ、それがラ・プロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の散歩道)となったのでした。

 ニースでは、その後、海を背景にして、数々の悲惨な出来事もありました。第一次大戦前、ロシアからやってきた若い女性が、ここで初めて大人の経験をし、画家や作家になり、高らかで、自由で、きらきらした青春を送ろうと夢みていました。そしてこの地で23歳で結核のため亡くなりました。彼女の名はマリ・バシュキルツェフと言います。遊歩道には今でも松の木の陰に石碑があり、彼女がここに来て、海を前に本を読み、夢みたことを告げています。ほとんど時を同じくして、ポール・ヴァレリーがニースに住み、モディリアーニが歩行者専用の見事な並木道を歩いていました。けれども二人があの若いマリを見かけることはありませんでした。東に向かってもう少し行った先に、私の祖母の友人で、シャルル・パテで組み立て工をしていた女性が城壁に建てられた小さな家のひとつに住んでいました。工場主は当時働いていた従業員のためにそこを借り受け、カリフォルニアならぬ、ニースのサンタ・モニカにするつもりでした。祖母の友人はカブリエルと名乗り、毎朝小さな部屋を後にすると、カモメの見守る中冷たい海に飛び込みにゆくのでした。著名なアメリカの俳優たちがニースにやってくる時代、ルドルフ・ヴァレンティーノやイサドラ・ダンカンの時代でした。

 私が通い始めた時代ラ・プロムは、耳目をひく有名人が度々訪れる場所ではもはやなく、億万長者もあまり見かけなくなっていました。むしろそこは、退職者の集まる心地よい場所で、近代的な建物のバルコンで日向ぼっこをしながら、花祭りやカーニヴァルの行列を楽しみにしているのでした。それでも、日によっては嵐の散歩道となり、高波が石を、カフェのガラスや海沿いの豪華ホテルの入り口に投げつけることもありました。夏の夕べには、フォンタンと呼ばれる変わり者が、様々な言語で、世界の新たな境界について演説を打ち、地図を描いてみせるのでした。フォンタンがあまりうるさくなると、警官が境界の別の方から彼を排除にかかるのですが、結局男は戻ってくるのでした。こうしたことはみんな昔話です。それでも、私にとっては、街のこの界隈こそが、エグゾティスムと素朴な日常の間の、跳ねっ返りの青年期と成熟した諦念の間の、変わらぬ本質なのです。

 ニースに降りかかった、あのおぞましい、筆舌に尽くし難い犯罪、この地を襲い、祭の最中、数知れないも無垢の散歩者を、子供連れの家族を殺した出来事は、二つの意味で私を打ちのめしました。ひとつには、私はかつてしばしばそこを訪れていたからです。大勢の人にもみくちゃにされずに花火を見せるために、娘を肩の上に乗せて。そしてもうひとつには、こうした罪なき人々を殺すことで、殺人者は私たちにとって大切なもの、暮らしを、破壊し、切り刻み、葬ってしまったからです。それは迂闊な人が想像してしまうような、豪奢と虚栄に満ちた舞踏(パバーヌ)ではなく、普通の暮らしのことです。いつもの楽しみ、国民の祝日、砂浜でのありふれた恋の物語、耳が痛くなるような叫び声をあげる子供たちの遊び、ローラースケートを履いての散歩、高齢者の長椅子でのうたた寝、潮風に髪を乱しながらのヒッチハイク、夕景の写真。惨劇がここに、闇雲に乱入し、肉体も夢も打ち砕き、薔薇色の染まる雲に、最後に打ち上げられた花火の大輪の残像が目にまだ残っている子供たちを殺戮してしまったのです。

 この街にこんな大きな傷口を残した殺人者は呪われなければなりません。トラックごと人並みに突っ込み、親たちの腕に抱かれた子供たちを轢き殺した奴は、その時何をのぞみ、何を考えていたのでしょうか。最後に静寂が戻る前に、犠牲者の叫び声の中に奴は何を聞いたのでしょうか。犯人はこれ以上を生きることを望んでいなかったのですから、この世界が滅びること、それを奴は望んでいたのでしょう。これこそ私たちが拒絶しなければならないことです。それは困難なことであり、ひょっとすると、できないことかも知れません。私たちはいかにすれば、虚無の帳を遠ざけて、もう一度暮らしを取り戻せるのでしょうか。どうすれば私はマリの松を見、ガブリエルの真っ青な早朝を取りもどせるのでしょうか。どうすればこの傷口を閉ざすことができるでしょうか。2016年7月14日のあの夕べ、ラ・プロムでなぎ倒された無辜の人々の記憶が、私たちが助けてくれるはずです。そのことを信じるために、私たちは日本人のように思い描かなくてはならないでしょう。ひと群れの蝶のように、彼らの魂は今も海の彼方の空を漂っていると。