今朝のNHKテレビ「日曜討論」――まだNHKを見ているのですが――の後半が「いじめ問題――いま子どもを守るためには」という特集でした。
残念ながら毎度のことですが、「いのちの大切さを子どもに伝えなくては」という発言がありました。
「いのちは大切だ」と言えば、子どもが「いのちは大切だ」と考え、実感し、それが価値観として定着するのなら、問題は簡単です。
そうでないところに問題があるにもかかわらず、責任ある立場の人から相変わらずの発言しかないのは非常に困った状況です。
もう一つ、「いのちの大切さを実感的に…」という言葉もありました。
これは半分ほどそのとおりだと思いますが、人間の心というものが考え方・捉え方抜きに実感するものだという日本人特有の思い込み――「理屈じゃないよ、気持だよ」という決まり文句に現われているいるような――から出ている発言ではないか、とも思えました。
論理療法、認知療法、認知行動療法が、膨大な臨床事例の検討によって明らかにしているように、人間の感情(例えばうつ)はものごとの考え方・捉え方、つまり認知のあり方によって、まるでといっていいくら異なってきます。
「理屈じゃない」という発想からは、いのちというものをどう考え・捉えたら、「いのちは大切だ」と実感できるようになるのか、という問題が抜けてしまっているのではないでしょうか。
私の年来の主張に引き付けるのですが、いのちはなぜ大切だと言えるのかという考え方・思想的な答えなしには、子どもたちにいのちの大切さを十分感じさせ、価値観として定着させることはできないと思われます。
もちろん、例えば小動物を抱いて心臓の鼓動を感じさせるとか、飼っていた昆虫や小動物が死んだ時の悲しさを体験させる、広くいえば直接的な自然体験をさせるといった方法は、ある程度有効ですし必要ですが、十分ではない、と私は考えています。
自己宣伝になってしまうのですが、私の授業を受けた学生のきわめて多くが、「なぜいのちが大切なのかがわかった」と感想を書いてくれます。
まだ読んでおられない方、ぜひ、これまで書いてきた記事を読んで見てください(私のブログのタイトルは「伝えたい! いのちの意味」なのです)。
最初から共感や同意は必要ありません。読んでみて、理解したうえで評価していただけると幸いです(例えば、「これならいけそう」とか「これじゃやっぱりダメだ」とか)。
もう一つ、大津の事件に関して、「もう『いじめ』という言葉だけでは表現できないことだと思う。これは、『虐待』であり、『人権侵害』と言うべきだ」といった趣旨の発言がありました。
まったくそのとおりだと思います。「いじめ」は、子ども間での「虐待」であり、「暴力」であり、「人権侵害」であり、人権の尊重が大前提である私たちの社会にあって、大問題です。
私たち大人は、子ども=私たちのいのちを引き継いでくれる次世代への「虐待」、「暴力」、「人権侵害」を放置しておいてはいけないと思います。