「また一切の衆生と共にあって成熟させるための依りどころだから」というのは、
布施波羅蜜によって衆生に利益を与え、持戒波羅蜜によって衆生に害を与えない。
忍辱波羅蜜によって彼らの迫害をあまんじて受け、恨みに報いる心を起こさない。
精進波羅蜜によって、彼の善の機能を生えさせ、彼の悪の機能を枯らす。
こうした利益を原因として、一切の衆生をみな教育・調整することができる。
次に彼の心がまだ静寂さを得ていないならば静寂にさせるために、すでに静寂を得ているならば解脱させるために、禅定と智慧という波羅蜜を立てる。
これら六つの悟りの彼岸へ到る手段によって、菩薩はよく衆生を教える。それゆえに、成熟させることができる。
(摂大乗論第四章より)
「教えることは学ぶこと」ということばがあります。
ただ学んだだけだと、実は学んだつもりなだけで、人に伝えようとしても記憶があいまいでちゃんと話せないとか、聞かれても説明できないとか、人生のいざという時に使えないということになりがちです。
人に教えると、自分がきちんとつかんでいないとしどろもどろになりますから、真剣に学び、説明できるところまで理解しようとします。
そして、教えている間に、自分でも「そうか、そうだな」と納得していくということが起こります。
大乗仏教の実践の基本は六波羅蜜です(六波羅蜜についてよりくわしくはこの記事以下を参照してください)。
これを実践することは、一切の衆生を成長・成熟させることですが、同時に一緒に成長・成熟していくことにもなります。
利益を与え、害を与えない。報復をしない。つまり、あらゆる方法で、その人の存在を肯定すること、「あなたが生きていることはすばらしいことだ」というメッセージを贈ることこそ、人を教育するための原点です。
それによって、その人の中に自他を肯定できる善い心の機能が生まれ、自他を否定する悪い心の機能が弱くなり、消えていきます。
そういう努力を続けることが、人を育てることなのです。
それに加えて、空しい欲望や怒りや嫉妬や空しさや落ち込みで心が騒ぎ・動揺して悩んでいる人に、禅定をすると心が静かで爽やかになると勧め、心が静かになったところで、世界の本当の姿の学びを伝え、ニヒリストかエゴイストか、さもなければ小市民的な幸福主義者かといった、人間性の低いレベルから脱出する手段を提供する。
そういうふうにして、「菩薩はよく衆生を教える」、そして「成熟させることができる」のです。
そしてまだ初歩の菩薩である私たちは、そういうことを人に伝える努力をすることで、同時に自分自身の心にも伝え、染み込ませ(熏習)、全身心的に自分のものにして、自分を成長・成熟させることができるでしょう。
筆者などは、どちらかというと、させるよりも自分のほうがさせてもらっているという気がしますが、いずれにせよ、六波羅蜜の実践は自分と他者とが共に成熟していくためのきわめて有効な依りどころ・手段・方法だと、改めて思います。
あきることなく、みんなで一緒に教え・教えられながら、実践を続けていきたいものです。