この体が私だと思っている(身見)があると、それに伴ってさらに偏ったものの見方(辺見)が生まれがちです。
偏ったものの見方(辺見)は、さらに2つあります。「断見(だんけん)」と「常見(じょうけん)」です。
この体が私だとしたら、体はどうしても結局は死にますから、私は無くなります。「無」になるわけです。
「〔からだが〕死んだらすべては終わり、無になってしまう」という考え方のことを「断見」といいます。断絶しておしまいということですね。
そのことを見つめると、すべては無であり空しいという考え方に陥っていかざるをえません。
現代の言葉でいうと「ニヒリズム」です。
物質としての身体が私のすべてだと思うと、必然的にニヒリズムになる、ということを、唯識はなんと千数百年も前に見抜いていたのだから驚きです。
しかし私がいちばん大事だと思いながら(我愛)、それが無になってしまうなど堪えがたいことです。
そこでもう一つの偏った見方が発生するのです。
体は実体としての私ではなく、体に宿る魂が実体としての私であり、永遠に死なないという考え方で、「常見」といいます。
あるいは、「今生の体は死ぬ体だが、次の生では死なない体になって甦る」というのも、常見のヴァリエーションと考えていいでしょう。
「魂の永遠」も「体の甦り・復活」もどちらも、仏教の視点からすると、魂か新しい体を実体と考えているという点で、まちがったものの見方・辺見とされます。
「魂」も「新しい体」も、他と関わりなくそれ自体で存在するということはありえないという意味で実体ではない、と私も考えます。
確かに実体としての魂や新しい体にこだわることは、辺見ということにならざるをえないでしょう。
ただ私は、実体ではないけれども、身体とは別の、現象としての「魂」が存在する可能性は頭から否定できない、と考えています。
しかし、魂が存在するかどうかということよりも、人間が今生で覚りうるかどうかということのほうが重要だと思っていますし、またブログ記事で長々と書くにはあまりに微妙な問題なので、これ以上述べることは避けておきたいと思います。
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“組織アレルギー”“宗教アレルギー”“運動アレルギー”
自分も含め、偏った見方を脱したいです。
藤沢の事務書の開設のはなむけに、
坂村真民さんの詩が思いついたので、
紹介させてください。
坐る
死のうと思う日はないが
生きる力が
なくなることがある
そんな時は、お寺を訪ね
わたしはひとり
仏陀の前に坐ってくる
力わき明日を思う心が
でてくるまで坐ってくる
藤沢の事務書が
そんなお寺のような場所になれば良いな
と思いついたので、紹介させてもらいました。
先生のおかげで、「ある」、「ない」と騒ぐよりも、今生をいかに向上しつつ生きていくかということに眼が向くようになってきました。
わたしも永久不変の固有的実体としての魂は想定できませんが、関係性のなかで生起する目に見えない「何か」はあるのかもしれないなと思っています。
いずれにしても、自分の「魂」というものに拘ってしまうのも、ひとつの執着だと思います。ちなみに最近流行りのスピリチュアルには、そうした傾向が散見されるような気がします。
アレルギー=自己免疫疾患は、とてもやっかいですが、でも自分のために治したほうがいいですよね。
日本人のアレルギー治療に貢献したいですね。
>しゅとうくん
いい詩を有難う。
そういう事務所に私はしたい。
いつか遊びに来てください。
>りょうさん
今生は覚りのチャンスですからね。お互いしっかり修行しましょう。
ある種の「魂」は、おそらくありそうですね。しかし、あまりこだわらないほうがよさそうです。その点、まったく同感です。