般若経典のエッセンスを語る12

2020年10月08日 | 仏教・宗教

 「無去来故無所得」とは、実体としての私が他のものと分離して存在し、他のものに対する場合は、得るとか得ないということがありえるが、すべてが一体だとすると、そもそも得るとか得ないという話にはならないということである。

 譬えると、海が海の水を得たとか得ないという話はないようなものである。世界の海はすべてつながっていて一つであり、海の水はあちらからこちらへと海流として流れる。しかしそれは、海そのものが行ったり来たりすることではないし、例えば日本海が太平洋から水を得たとか、太平洋がインド洋から水を得たという話ではない。

 そういう意味で、一体のもののなかでは得るということは成り立たない・「無所得」なのである。

 ここで、解説からやや発展して、内容の本質に関わることを少し述べたい。

 現在の日本も含む世界は、欧米型であれ中国型であれ、「所得」があることが大前提で営まれている経済社会である。

 しかし、それは仏教の眼から見ると、「無所得」ということを見ていない無明そのもののシステムであり、したがってうまくいくわけがない、と筆者には見える。

 所得や利益ということを大前提に得した・損したと競争をやっているような世界のあり方は、決してうまく行くことはないどころか、さまざまな問題をたくさん引き起こしており、人類はこのあたりで「無去来故無所得」・所得などということはそもそもないことに目覚めて、そこから新しい経済システムを再構築しないと、遠くない先に人類は致命的に行き詰まるのではないかと思う。

 逆に言えば、しっかりと目覚めると、そこからほんとうに持続可能な世界が構想される、と筆者は考えている。

 そして、まさにそのことを教えている般若経典が日本に伝わっていることは、日本の精神的遺産であり、これから日本がほんとうの意味での再生を遂げるのは、この般若経典の「無所得」という世界に戻り再発見することによってこそ可能になるだろう。

 「人間はぜんぶつながっていて、そして宇宙というレベルで見ると一体なのだ。だから、誰が損したとか誰が得したなどということは、ほんとうにはないのだ」と、まず日本国民の多数が思い、そのような形でみんなが幸せになる日本経済を、日本の特に政治と経済のリーダーたちが実行したら、それは当然誰もが幸せになるし、とてもうまくいくだろう。

 さらには、それが人類社会に広がっていくならば、持続可能な世界秩序が実現できるだろう。

 そうシミュレーションはできる。もちろん実行はきわめて困難であるに違いなく、実行できるかどうかは日本人そして人類総体がそうした智慧を得ることができるかどうかの問題だろう。

 しかしともかく、智慧の源泉はこうして遺産として残されている。そういう意味では、日本はすばらしい国だと思う。

 仏教は、インドでは基本的には残っていない。それから中国に伝わったわけだが、今中国には若干残っているが、日本のような形では残っていないようだ。

 ある意味で日本より仏教がしっかりと生きているのは台湾である。

 それから東南アジアには上座部仏教が非常によく生きていて、とても意味があると思うが、これは大乗ではない。

 かつてはチベットに大乗仏教がしっかりと残っていたが、今は独立した国としては存在しない。

 そういう意味で、この大乗仏教の経典である般若経典がしっかり残っている国・文化というのは、世界の中でもきわめて少ないのである。

 だが、日本で実際に行なわれているのは、主に呪術的・神話的な儀式などである。

 もちろんそれによって残ったのだから、それはとてもいいことである。残ったものを今再発見・再理解すると、日本の精神文化が再生する。精神文化が再生すれば文化全体が再生する。大筋を言うと、そういうことがあると思っている。

 日本の精神的な遺産の中核ということでは、筆者はこれまで唯識を強調してきたが、加えて般若経典が残っているということは、日本人にとって大変幸せなことだと思うようになり、多くの日本人にその思いを共有してもらいたいというのが、繰り返すと、元になった講義と本書の動機である。

 


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