般若経典のエッセンスを語る36ー正しい智慧が完成するように

2021年08月25日 | 仏教・宗教

 第六願は六波羅蜜の第六「智慧」に関する願、「正慧成就の願」で、「正しい智慧が完成する」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が般若波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が愚かで悪知恵があり、世間的と超世間的な正しい見方をどちらも失っており、善悪の業と業の結果を無視し、死ねばすべては終わりとこだわり、永遠に存在するものがあるとこだわり、実体的一体性にこだわり、分離した多様性にこだわり……種々の誤った見方があるのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはこのような悪知恵がありまちがった見方に執着するような有情たちがおらず、すべての有情に正しい見方と種々のすばらしい智慧を成就させ、三種類の神通力(過去世を知り、未来世を知り、煩悩を尽くす)を具えさせよう」と。……

 

 すでに述べてきたように仏教では、ふつうの人間の知恵はすべてを分離独立した実体だとする錯覚・無明をベースにした「分別知」であって、ほんとうの正しい智慧とはまるで逆のものであり、それに対して正しい智慧とはすべてをつながって一つと捉える「無分別智」だ、と考えられている。

 すべてがつながって一つということが世界のほんとうの姿であり、それに目覚めることが智慧なのならば、智慧から生まれる人間と人間の関係はいうまでもなく平和であり相互扶助・互恵であり、人間と人間以外の自然の関係は調和である。

 ところが、人類は言葉によって文明を築き、築く過程で多くの戦争を行ない(いまだに行なっている)、人間以外の自然・環境を破壊し続けてきたのではないだろうか。

 だから、分別知がどれほど多く巧妙であっても、それは根本的には「愚かさ・愚癡」であり「悪知恵・惡慧」だ、と仏教は言う。これは、言葉による分別知で文明を築いてきた人間の営みに対する根源的な批判だといってもいいかもしれない。

 けれども、仏教のふつうの人間に対する姿勢は、批判・非難・否定というよりは、医者が病人に対するように悪い病気は病気として厳しく指摘するが、それは病人・人間そのものを悪いものとして断罪するためではなく、治療の前提としての診断である。診断に基づいて治療が行なわれると、病人は人間でなくなるのではなく健康な人になるのである。

 もろもろの有情・すべての人が智慧の心を得て、健康あるいは超健康になることができれば、人間同士の持続する平和と人間と自然の持続可能な調和が実現できるだろう。

 逆に言えば、人類の知恵が基本的に分別知であるかぎり、人間同士の争いと自然との不調和は終わらないだろう。

 では、仏教は人間の心の病・愚癡・無明をどのように診断しているのだろうか。般若経典に先立つ部派仏教のアビダルマでも般若経典に続く唯識学でも無明・煩悩の詳細な解明がなされているが、この個所では、ごくポイントだけが述べられている。

 自我を実体視し中心視すると、ごく常識的・世間的・社会的な意味でもものごとを曲げて見るようになりがちである。もちろん、自我が実体ではなく世界の中心でもなく、かつ世界とつながって一つであるという世間の常識を超えた見方などまったくできない。

 自分が他者や世界と分離独立した実体だと錯覚すると、さらに善であれ悪であれ自分が何をしようと「関係ない」「自分は自分であって影響を受けることはないし変わることはない」という錯覚が重なって起こる。

 しかし、実は自分も他もつながっていて(縁起)変化する(無常)ものなので、自分の行為は必ず他に影響を与えるし、自分自身にも影響を与える。善い行為は自他に善い影響・結果をもたらし、悪い行為は自他に悪い影響・結果をもたらすのである。

 自分を他とまったく分離した身体的存在だと錯覚すると、そもそも自分のいのちが先祖から私そして子孫へとつながったものであり、また他のさまざまないのち(植物や動物)とのつながりによって維持されているものであり、いのちといのちでないものはつながって一つの宇宙・大自然であって、絶えず関わり合いながらいのちになったりいのちではないかたちになったりという変化をしていることがまったく見えず、「自分が死ねばすべては終わりだ」と思い込むことになるか、それではあまりにも空しいので、霊魂のような実体で永遠に存在するものがあると信じ込みたくなる。

 前者を「断見(だんけん)」といい、後者を「常見(じょうけん)」といって、仏教では身体であれ霊魂であれ実体があると思い込むのは、誤ったものの見方・「悪見(あっけん)」であるとしている。

 断見は、現代的に言えばエゴイズムを元にしたニヒリズムであり、常見は原理主義的な宗教に見られるような自分たちの信じるものだけを永遠視し絶対に正しいとする排他性を生み出すという意味で、これからの人類全体の平和にとっては有害無益なものの見方だ、と筆者も考える。

 さらに、すべてのもの・全体が一体(一如)だとはいっても、それは固定的な実体的一体性ではなく、分離はしていないが区別はできるそれぞれの多様な部分が関わり合いながら(縁起)、絶えず変化していく(無常)、いわばダイナミックな宇宙的なプロセスとして一体なのである。

 したがって、一体(一)とはいっても多様性(異)を含んでいるし、多様性も分離独立したばらばらの実体が多様にあるということではなく、一体性に含まれ包まれた多様性である。

 どちらにしても、一体性を実体視することも多様性を実体視することも誤ったものの見方であり、仏国土を創るにはふさわしくないものの見方だという。

 それは、以下見ていくとはっきりするように、仏国土は、仏という独裁者が統一・統治する全体主義国家でもなければ、人々が自分の好き勝手に生き、幸不幸や生き死にはすべて自己責任と運であるという個人主義的・自由主義国家でもないということでもあるだろう。

 そうした一体性と多様性が調和した仏国土を創るには、人々がみな過去のことを深く正確に知り、未来のあるべき姿をも深く正確に知っている必要があるし、そのためには自分(たち)を実体視・中心視することと、そこから生まれる自他を悩ませるような心のあり方から解放されていなければならないというのである。

 般若経典には、これまで人類が一度も創り出すことのできなかった、最高に平和と調和に満ちた国そして世界を創るための基本的なまさに智慧・般若が語られている、と筆者は読み取っている。

 

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