「縁起」の第2は、「十二縁起・十二因縁」と呼ばれるものです。
系統のちがった伝承では、ゴータマ・ブッダは、菩提樹の下で、「すべて結果があるものには原因があるはずで、その原因をたどっていくと、最初の原因にたどり着くはずだ」(「因果の法」)と考え、「なぜ、老いや死という苦しみがあるのだろうか…それはそもそも生があるからだ…」と思索・瞑想をしていったといいます。
そして、結果から原因へと遡って、「老死(の苦しみ)があるのは、生(しょう)があるからだ。生があるのは、有(う)があるからだ……取(しゅ)→愛(あい)→受(じゅ)→触(そく)→六入(ろくにゅう)→名色(みょうしき)→識(しき)→行(ぎょう)→無明(むみょう)」と瞑想・洞察していったのです。
これを「逆観」といい、あとで整理した順を「順観」といいますが、ブッダは、逆観と順観を繰り返して洞察を深めていかれました。
「無明」とは、心の表面にはびこり、さらにその根っこは心の奥底に潜み澱んでいる根源的な無智(無知ではなく)のことです。
すべてのもの(者・物)を分けてばらばらに見るのです。
そして特に自分と自分でないものを分けておいて自分にこだわり、いのちといのちでないものを分けておいていのちにこだわります。
そういう心は、ほとんどすべての人(凡夫)のなかでしっかりと働いており、悩みの源になっています。
無明があると、実体(これは後でくわしく説明します)としての自分があるという妄想・構想を起こす力が働きます。それを「行」といいます。
続いて、そういう無明に基づいた構想力によって、「心」つまり「識」の働きが起こります。これは、「実体としての自分があると思う潜在的な心」といっていいでしょう。
そしてそういう自分があると思う心が生じると、当然のことですが、外側に自分とは別の分離した「外界」があるように思えてきます。それが「名色」です。
つまり個別の「名前」に対応した分離した個別――個々別々、ばらばら――のものが「色や形」をもって存在しているように見えてくるわけです。
続いて、自分と外界は分離しているのだという思い込みを基にして、五つの感覚器官と意識=「六入」が働きます。
さらに、外界の対象と感覚器官と意識との「接触」=「触」が起こります。
それが「感受」されることを「受」といいます。
実体としての自分が存在するという錯覚に基づいて心と外界の接触や感受が行なわれると、外にある対象は自分ではなくて、しかもそれなしには生きられませんから、いつも自分に足りない何かが外にあり、たえずそれを獲得‐所有しないと生きていけないという、激しい喉の乾きのような欠乏感が生まれます。それを「愛」あるいは「渇愛(かつあい)」といいます。
そして欠乏感・渇愛の気持で人や物に接して、少しでもいい思いをするともうそれに執着するようになってしまう。それが「取」です。
そういう無明から取までの心の働きを基に、宇宙と一体でなく、他の人や物とつながっておらず、流れでもない、実体としての生命=「有」が妄想・構想されます。
そして、それを基にして誕生があり人生が営まれていきます。「生」です。
そういう無明・妄想と執着に基づいた生き方をしているかぎり、「老い」と「死」は、いのちの自然なプロセスとして受け容れるどころか、絶対に受け容れられない苦痛、人生の根本的な不条理と感じられることになります。
ブッダにとって、生理的な意味での「老死」そのものではなく、心理的な「老死」への不安や恐れや不条理感こそが問題だったと思われます。
そうした「老死」の苦しみの原因論が第2の意味での「縁起(または因縁・因果)」であり、その苦しみを超える体験をあえて言葉にしたのが第1の意味での「縁起」である、と私は捉えています。
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実体・・・これを檀家さんに説明するのにいつも苦労します
それは、やっぱり実体視するあり方を自明なものとして疑わないからだと思います。