
毎年この季節になると思い出すのは、道元の『正法眼蔵』「梅華」の巻です。
全体が実に美しい文章ですが、特に次の個所がとても深くてとても美しくて、初めて読んだ時からずっと心に残っています。
老梅樹の忽(たちまち)開華のとき、華開世界起(かかいせかいき)なり。華開世界起の時節、すなはち春到(しゅんとう)なり。
訳すと、「老いた梅の木にたちまち花が開く時、花が開いて世界が起こるのである。花が開いて世界が起こるというその時、すなわち春が来るのである」といったところでしょうか。
私たちの常識では、まず梅とは別に全体としての世界が存在しており、その世界が春になり、そこで老いた梅の木にも花が咲く、ということになります。
ところが、徹底的にすべてのものの一体性を覚っておられる道元禅師の目には、梅の花が咲くことと世界がそこで新たに生起することと春になることもまた一つのことです。
無我であり無常である世界は、一瞬一瞬、新たに起こるのであり、それは梅の花として起こったり、春として起こったり、さまざまな区別できるものとして生起しながらも一つです。
コスモスには、一瞬一瞬、新たな創発が起こっています。
よく考えると、古い木(と私たちには思えるもの)に梅の花が咲くことも、実はコスモスの新たな創発だというほかありません。
そして、梅の花が開くことにおいて、「春」と名づけられた新しいかけがえのない時が起こっているのです。
早春、梅の花が咲くというごく当たり前のことをこんなに深く体験することは、私たちの心の発達段階ではできません。
ただ憧れと崇敬の思いで道元禅師の言葉の深さと美しさを味わうだけでいい、といえるかもしれません。
けれども、つながり-かさなりコスモロジーを学んできた私たちには、少なくとも論理としては解釈できますので、とりあえず私にできる解釈で味わってみました。
今日、散歩に出ると、まだ若い梅の木の昨日はようやく開きはじめた蕾だったのが、まさに「たちまち」という感じに開いていました。
初々しく清楚な白さが何ともいえず好ましい、と感じたことです。

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なんて味わい深い言葉でしょうか。
一体ですね。完全に一体。瞬間の一体の発露。
こんなふうに自己と梅の花と世界と全宇宙とが、瞬間にして同時に把握できたら・・・これはまさに「青山常運歩」の世界とも言えるのでしょうか。
「華開世界起」は、あえて意訳すれば、「華が開いて世界が起こる」ですが、ここに本来順序はない。「華が開く=世界が起こる」と言えるんですね。
美しい言葉を教えてくださって有り難うございました。
永平寺安居時代に、禅師さまから「梅開早春」という話をききました。
「梅は早春に開く」よりも「梅は早春を開く」のほうがよいと。
余談ですが、当地には、「開春」という名の日本酒があります。
いい名前だな、と思っています。
道元『正法眼蔵』は、思想として深いだけではなく、文学としても日本文学の最高峰だと感じています。
いろいろな機会にご一緒に味わわせていただきたいと思っています。
>風月さん
はじめまして。コメント有難うございます。どうぞ、時々のぞいてください。
私も、風月さんのブログを拝見させていただきます。