般若経典のエッセンスを語る47――智慧と慈悲のバランスを

2022年11月02日 | 仏教・宗教

 最初のほうで、大乗仏教は一言で言ってしまうと「智慧と慈悲」であること、そして智慧は空・一如に裏づけられていることを述べた。

 日本では明治以降、もっとも典型的には京都大学の哲学科の主任であった西田幾多郎が、坐禅の実践をベースにした思索によって、西洋の哲学の概念と、禅の空いわば東洋を、ひとつの哲学に統合して体系づけるという仕事をした。西田の最初のまとまった著作は『善の研究』であり、それ以後の著作も含め次第に日本の知識人・教養人たちの教養書・基本図書になっていった。そのように、日本の仏教に関する文化全体の中核の一つに京都学派宗教哲学があり、その源泉に西田幾多郎という人物がいて、さらにその背後に臨済禅がある。

 そこでなされた「無」や「空」という概念の哲学的な詮索、およびそこから出てくるさまざまな文化的なムードがあったため、これまで仏教は智慧・空のほうに重点を置いて理解されがちだったのではないだろうか。

 そしてそれが通俗化すると、空や無などといったことをお説法などで聞きながら、それは例えば「無欲である」とか「自己主張がない」という意味での「無我」であるとされ、一種の心の安らぎを与えるものとして仏教が捉えられるというところがあったと思う。

 そうした文化の流れの中で、大乗仏教の基本でありながら、焦点が非常にぼやけてしまったのが「慈悲」である、と筆者は捉えている。

 そこで、般若経典の最大の『大般若経』六百巻の中で、慈悲の実践として「具体的にこういうことをしよう・したい」という菩薩の誓願にこんなにすごいものがたくさんあるということ、つまり「智慧と慈悲」という場合の慈悲の話を先にした。

 大乗仏教の慈悲は、ヒューマニズムの人類愛やそれがもう少し市民化・庶民化したボランティア精神などとは、ベースはまったく違うのである。そして、そのベースになっているのは智慧・空であるから、智慧と慈悲のどちらかだけが語られるのでは大乗仏教が正しく語られることにならない。また、どちらかに比重が傾いてしまうのも正しくない、と筆者は考えている。慈悲は必ず智慧に基礎づけられているという構造になっている、と理解している。

 これまで強調点がぼやけてしまっていると思われるので、ここまで特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、続いて、とはいってもやはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならない、ということを述べていくことになる。


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