悪見の第4と5は、自分の見解・思想にこだわる見取見(けんしゅけん)と特定の戒律や禁止事項にこだわる戒禁取見(かいごんしゅけん)です。
仏教では、いうまでもなく正しいものの見方(正見)と戒律を非常に重んじます。
ところが、自分(たち)のものの見方(思想、宗教)や戒律に執着しこだわることは根本的な煩悩だとしています。
これは、初めて学んだときは驚きでした。
あらゆる宗教やイデオロギーが陥りがちな自己絶対化の危険にみごとなまでにしっかり気づいていて、それに対する厳しい警告をしているのです。
一般には、自分(たち)が信じている教えは絶対に正しく、守っている戒律は絶対に守るべきだ、と信じることこそ宗教だと考えられているのではないでしょうか。
そうしてこそ、確信、安心、安定、アイデンティティの確立ができる、と思っている人が多いようです。
ところが、唯識仏教では、自己絶対化は根本煩悩だとするのです。
つまり平たく言えば、まちがっているということです。
とても柔軟な、ある意味で「自己相対化」ともいえるような視点を持っているのです。
私の知るかぎり、こんな宗教は他にはあまりないようです。
そういう点でも、仏教はふつうにいう「宗教」を超えてしまっていると思います。
唯識仏教は、なぜ見取見と戒禁取見を否定するのでしょうか。
それは、人間がマナ識という自分にこだわる心を抱えているため、やることなすこと、どうしても自分へのこだわりにつながってしまいがちだという洞察があるです。
すでに他のところでも少しふれましたが、私たちは自分へのこだわりのために、「自分(たち)が信じているのだから、自分(たち)が守っているのだから、これは正しいに決まっているんだ」、「これを信じ守ることこそ人間として正しいことなのだ」、「これを信じない、守らないやつは人間じゃない」という思考パターンに嵌ってしまう傾向があります。
そうするとあまりにもしばしば、十字軍などに代表されるような宗教戦争や内部での宗派間闘争や異端裁判や魔女狩りなどの恐るべき事態が生じてしまいます。
宗教・信仰やイデオロギーの危険、どころか過去から現在に到るまでさまざまなところで起こっているあまりにも悲惨な実害は、集団的な自己絶対化から出ています。
ところが、自己を絶対視することこそ無明だと気づいている仏教では、どんなに正しいと見える教えや戒律でも絶対視したらもうそれは誤りだというのです。
どんなにすばらしい教えも戒律も、人間が救われたり、覚ったりするための、すぐれた方法つまり「方便」にすぎないというのが仏教の基本的立場だ、と私は理解しています。
といっても、これは、「あらゆる意見はそれぞれの主観にすぎないのだから、どれが正しいなどということはない」といった価値相対主義とは、一見似ていて実はまったくちがうものです。
縁起、無常、無我……といったコンセプトで指し示される事実は、コンセプトがどうであれ、事実そのものでしょう。
そのほうがわかりがよければ、例えば関係性、時間性、非実体性というふうに言い換えても、指し示された事実は変わりません。
つまり、教えは絶対ではないが、それが示している事実は絶対です(と私には思えます)。
ですから、疑わしかったら、自分で何度でも考え直し、確かめ直すことができるのです。
頭から信じなくてもいい、どころか信じてはいけない、よく見(正見)、よく考え(正思)、何度でも考え直し確かめ直しながら、確信を深めていくことができる、というのが仏教的な「信」の特徴なのです。
そして、そういう事実に目覚めるためには、やるべきこと、やってはいけないことがあるというのも、ほんとうにそうかどうか、いわば臨床的に確かめることができます。
「効果が確かめられようが確かめられまいが、とにかくこの教団ではこの戒律を守ることになっているんだから、絶対に守らなければならない」というのは、大乗仏教-唯識の考え方ではありません。
その戒律を守ることによって、マナ識が浄化されて爽やかで温かな心になるという効果があるかどうか、確かめ直しをしていいはずです。
効果があるようなら守り続ける、ないようなら止めていい、というのが大乗の戒律への基本的な姿勢だ、と私は理解しています。
そういう意味で仏教は、絶対主義でも価値相対主義でもなく、いわば「臨床的実証主義」とでもいうべき立場を取っているのではないでしょうか。
ここでも、「大切にすることはこだわることではない」という区別が当てはまるようです。
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う~む・・・。確かに眼から鱗。
これはかなり画期的な捉え方ですね。
先生が言われるとおり、宗教のカテゴリを超越している。
しかし、縁起の理法・空ということを、きちんと押さえれば、こういう考えが導き出されるのは当然かもしれません。
ここには自己絶対視せずに、事実を直視して、対策を講じることの展望が開かれてますね。実にリアリスティックで実効性のある教えだと思います。
有り難うございました。