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仏教では、貪り(貪・とん)、怒り(瞋・しん)、愚かさ(癡・ち)を「三毒(さんどく)」と呼び、煩悩の代表的なものとしています。
そういうものが無い状態、無貪(むとん)、無瞋(むしん)、無癡(むち)が善の心です。
貪らない、憤らない、愚かでないことが善だというのは、誰でも納得できそうなことです。
しかし、それが、欲望は何もないとか、何をされても腹を立てないとか、知らないことは何もないという意味だとしたら、すごくご立派だけど実際にはほとんど誰にもできそうにない話です。
私の考えでは、無貪、無瞋、無癡というコンセプトは、そういう実行できそうもない理想を述べているのではないと思います。
仏教を現代の私たちにとって活きた意味のあるものにするには、ここは決定的に重要なポイントだと思うので、1つ1つ見ていきます。
まず貪-無貪について考えていきましょう。
貪りというのは、過剰で異常な欲望のことであって、自然で適度な欲求とは区別する必要があります。
例えばいちばんわかりやすいのは「食欲」です。
確かに、食べすぎは病気を誘発する元で体によくありませんし、過食症となるとそれはもう病気です。
しかし、いくら「無欲」がいいといっても、食欲がまったく無くなったら、人間は死んでしまいます。
自然で適度な食欲は、健康に生きていくためには不可欠なのです。
言葉にこだわると、「無欲」というのはむしろ「少欲」というか、それでも不正確だと思うので、より正確な新しい言葉を造って「適欲」つまり適度な欲求とでも言い換えたほうがいいのではないか、と私は思っています。
もう一つ、例えば性欲はもっとも誤解されてきたものだと思います。
多くの宗教で、まるで性的な禁欲そのものが善であるかのように考えられてきました。
確かにマナ識に汚染されがちな性欲は、他者の人格を無視した自己中心的な過剰で異常な快楽追求に走りがちです。
そういう現象があまりにも多いので、性そのものの否定・禁欲がいいこと・清らかなことだと誤解されがちだったというのは、理解できないことはありません。
しかし、よく考えると、すべての人が清らかになって性的に禁欲しさらには無欲になってしまったら、男女が性的に交わり、子孫をもうけ、いのちをつないでいくという営みの動機がなくなってしまい、人類は絶滅するでしょう。
適度で正常な性欲は、男と女が愛し合うというすばらしい体験のベースになっているエネルギーです。
しかも、いのちをつないでいく原動力です。
性はコスモスのすばらしい創発の一つだ、といってもいいでしょう。
それを否定するのは、いのちを生み出しつないでいくというコスモスそのものの営みを人間の倫理で否定するという大変な傲慢だ、と私は考えています。
その他、悪いことの典型のように考えられがちな、財産欲、名誉欲、地位欲なども、適度で正常な範囲であれば、健全で活力ある社会生活には必要なものです。
そういうわけで私は、過度で異常な「欲望」と適度で正常な「欲求」というふうに言葉を区別して使うことにしています。
無貪とは、まさに貪り=過度で異常な欲望がないことで、適度で正常な欲求もなくなることではない、と理解するといいのではないでしょうか。
貪りから解放され、適度で正常な欲求を原動力として、自他の幸福を追求しながら生き生きと生きていくというのは、もちろん善です。
*写真は、雨に濡れた白い沈丁花
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