講話:けっしてくじけない心

2008年11月13日 | メンタル・ヘルス

 先日、大学の授業が終わって教室から出たら、廊下で前に授業を取っていた学生に会い、「二日に一度くらいはブログを見ています」と言ってもらいました。

 「今年の後期はとても忙しくてなかなか更新できなくて、失礼」と言い訳しながら、できれば忙しさに負けずがんばって更新したほうがいいな、と若干の反省をしました。

 そこで、少し前に書いた記事と重なるのですが、それをネタに先日O大学のチャペル・アワーで話した時の原稿を掲載することにしました。

 参考になればうれしいのですが。

            *       *

 今、日本も世界もなかなか厳しい時代になってきています。そこで、ぜひ必要なのは「けっしてくじけない心」だと思います。

 私は、集中講義も合わせると4つの大学で教えています。つまり、みなさんと同世代の若者とたくさんつきあっているのですが、個人的に話していてよく聞くのは、「落ち込む」「へこむ」「折れる」といった言葉です。

 あまり一般化しすぎないほうがいいのですが、傾向としていえば世代が若くなるほど、心理学用語でいうと「ストレス耐性」が低いように感じられます。

 しかし、これから残念ながら状況はますます厳しくなっていくかもしれませんから、ぜひストレスに耐えることのできる心の力を今からつけておいてほしいと思い、今日は、そのヒントになりそうな聖書の言葉を選びました。


 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。

 途方にくれても行き詰まらない。

 迫害に会っても見捨てられない。

 倒されても滅びない。

 いつもイエスの死をこの身に負うている。

 それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである。

                (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第4章8-10節)


 これは、キリスト教の大使徒パウロがコリントの信徒たちに送った手紙の中にある言葉ですが、読んでみると、彼がどんなことがあってもくじけない強い心をもっていたことがわかるのではないでしょうか。

 では、彼が実際にどのくらい厳しい・きつい体験をしてきているのか、同じ「コリント人への第二の手紙」の23節以下でより具体的に語っています。


 繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。
 いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。……

 もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル入なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼以上にそうである。

 苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石でうたれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。

 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。

                    (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第11章16-31、聖書協会訳)


 これを読むと並たいていの苦労ではないことがわかりますね。

 しかしパウロは、それでもけっしてくじけなかったのです。「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。 倒されても滅びない」というのは、単なる強がりではありません。これは、ほんとうにすごいことですね。

 なぜ彼はこんなに強い心をもつことができたのでしょう。それをくわしく知るためには新約聖書の中のパウロが書いたとされる手紙をすべてしっかりと学ぶ必要があるということになりますが、今日は短い時間ですから、大切なポイントだけ学んでおきましょう。

 それは、この言葉の次にある「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである」という言葉が示していると思われます。

 ここで語られている「イエス」は単なる歴史上の人物でも、単に原理主義的キリスト教で絶対視されている救世主のことでもない、と私は解釈しています。

 むしろ「ほんとうの人間」、志・使命のために生きて死んだ人のことだと思うのです。

 現代日本人の多くが、「人生は自分のため、自分が楽しむため、自分が幸福になるためにある」と強く思い込んでいるようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。

 もしそうだとしたら、自分が楽しくなくなったり、幸福でなくなったりしたら、もう人生には意味がないということになります。そうなると、生きていてもしかたない、死にたいということになるでしょう。実際、少しつまらなかったり、きつい、つらいことがあったりすると、すぐ死にたくなる人、自殺願望を持つ人、実際に自殺をしてしまう人が多いようです。

 「人生は自分が楽しむため、幸福になるためにある」という人生観は、一般的にいうととても当然のように思えますが、実はとてもストレス耐性の低い人生観なのです。

 もちろん、今楽しむことができ、幸福なのに、わざわざ苦しんだり、不幸になったりしなければならないなどとは、私も思っていません。できるのなら、悪いことをするのでなければ楽しむことはいいことですし、幸福を素直に喜べばいいと思います。

 しかし残念ながら、世界は私のためにあるわけでも私を中心に回っているわけでもありませんから、人生にはなぜか、どうしても苦しいことがやってきたり、不幸になったりすることがあるのです。

 そういう時にもくじけないためには、予めどんな人生観を持っておくといいでしょうか。「楽しくなくても幸福でなくても、それでも人生には生きる理由がある」という人生観を持っていると、当然ながら、苦しくても不幸でもしっかりと生き抜くことができます。そういう人生観はとてもストレス耐性が高いのです。

 「命」という漢字を考えてみましょう。これは「命令」の「命」です。それが示しているように、「命」には、原点・出発点からして、自分が生まれたくて生まれたのではなく、生まれさせられた、いわば「生きるように命令された」という面があるのではないでしょうか。

 また、それに関連して「使命」という言葉があります。「使わされた命令」とも読めますが、もうひとつ「命を使う」と読むこともできます。つまり、この言葉には、生きるということは「命を使うこと」であり、命を使うことは「使命を果すこと」でもある、という深い意味が秘められているのではないかと思います。

 それから、「使命」に似た「天命」という言葉もあります。命はまさに天から生きるようにと命じられて与えられたものです。そしてその命をどう使うか、天から命令が与えられている、というのが命の本質なのではないか、と私は思うのです。

 つまり、誰でも生まれてきた以上、天というか、大自然というか、宇宙というか、神というか、サムシング・グレイトというか、言葉はともかく、自分を超えた大きな何かから与えられた、自分がやるべきこと・私にしかできないこと・私にできる仕事があるはずだ、と思います。

 そして大学とは、条件がいいとか。自分が好きとか、自分に向いているとかではなく、自分がやるべきこと・私にしかできないこと・ほんとうの意味で私にできる仕事が何かを発見するための準備期間なのではないでしょうか。

 そしてもちろん、イエスは自分の使命のために生きて死んだ代表的な存在の一人です。私たちが、ただ楽にとか、楽しくとか、儲けて生きることだけでなく、意味を感じて生きて死ぬことを目指したいのなら、イエスの生と死は最高のモデルです。

 新約聖書の最初のほうにある4つの福音書を読むと、それは、原理主義的なキリスト教のようにイエスを唯一絶対のキリストと信じても信じなくても、まちがいなく言えることだと思います。

 使命を自分が心から受け止めると、それは「志」ということになります。私たちが、自分がこの世に生まれてきた理由・使命を発見・自覚して、それを自分の志にしたら、人生でどんなことがあっても簡単にくじけたりすることはなくなります。人生は楽しみや幸福のためにあるのではなく、重大で困難な使命・志を果すためにあるのですから、困難・苦しみがあって当然ということになります。

 志に生きて、そして死んだ人を自分のモデル・理想にして、特にその「死」を自分自身の覚悟として受け止めている人間は、どんな困難をも人生の課題・志を達成するための機会として捉えることができます。

 自分の人生・生きることだけではなく、生と死を通じて、ほんとうの人間性・ほんとうのいのちが輝き出ることが人生だと思った人間には、敗北はありえないのです。 だから、ふつうでいうともうどうにも「途方にくれても」、それでも「行き詰らない」、何度ダウンさせられても敗北しないのです。

 それは、それでも、大いなるなにものかの意思は貫徹されるから、あるいは宇宙は進化し続けるからと言ってもいいでしょう。

 大いなる何かによって命を預けられた、そしてその命を使って使命を果すことにこそ命の意味・人生の意味がある、という人生観を獲得すると、どんなことがあってもけっしてくじけない強い心を持つことができる、きわめてストレス耐性の高いパーソナリティを形成することができると思います。

 これから厳しくなるかもしれない時代にあって、そういう人生観を持ったほうがいいか、それともやっぱり「人生は自分が楽しむため、幸福になるためにある」と思っているほうがいいか、どちらが、ほんとうに自分の人生のためになるか、せっかくキリスト教主義大学に来たのですから、いちどちゃんと考えてみる価値はあるのではないでしょうか。


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3 コメント

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素晴らしいチャペルアワーでしたね (ちこ)
2008-11-14 10:31:58

 偉大な先人たちの生き様に、心から敬意がわいてきます。

 こういう心の有り様や姿勢を知り、素直に受け止めると、自分の人生に大きな影響があると思います。

 少しでも近づけるよう精進したいです。
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こんにちは ()
2008-11-26 19:45:35
<大乗仏教の深層心理学―摂大乗論を読む>
を読んで、感動しました。本で感動するのはひさしぶりです。

行き詰まり迷っておりましたが、おかげさまで、方向がみえてきて、いまは、
■先生の、「道元のコスモロジー―『正法眼蔵』の核心」
■クリシュナムルティ、「自我の終焉」
■ケン・ウィルバー、「存在することのシンプルな感覚」
この三冊を平行して、すこしづつ読んでおります。

熏習―衣に香を焚きこむ様に学ぶ習慣が、この身にもたらすものを少しですが実感できるようになってまいりました。
ありがとうございます。
返信する
熏習を続けましょう (おかの)
2008-12-02 22:27:45
>陽さん

コメント有難うございました。すぐにお返事できなくて失礼しました。

拙著、読んで感動していただけたとのこと、とても喜んでいます。

いい学びを続けておられますね。ぜひ真理のことばの熏習をお続け下さい。
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