毎年この季節には、さまざまなメディアが一斉に戦争の記憶に関する番組や記事を企画する。
私も、このタイミングで言いたいことがあったのだが、ワークショップの事後処理、会報『サングラハ』第142号の発送などなどに追われて遅くなってしまった。
やや遅れ気味ながら、本質的には季節に関わらないことなので、一言書いておきたい。
メディアの報道のなかで、戦争を体験した方々の「戦争がどんなに悲惨か、知ってもらいたい」「戦争は嫌だ」「二度と戦争をしてはいけない」という言葉が繰り返し聞かれる。
私は「戦争を知らない子どもたち」の世代ではあるが、小学生の頃、兵隊として南方に行った方から聞かされた戦争体験の話と、戦後の平和教育のなかで見せられた広島の原爆の記録映画に、きわめて深刻なショックを受けた。
その深刻さは、後に心理学を学んでから振り返ると、誇張なしに「トラウマ・心的外傷」と言っていいものだったと思う。
「人間はなぜおなじ人間にこんなにも残酷なことをするのか」、「どうすれば、そうした残酷さを克服できるのか」という小学生にはあまりにも重い、トラウマ的課題を背負ってしまったと言い換えることもできる。
その時以来今日まで、私の思想的営みはすべてそのトラウマ的課題を治癒-解決するための努力だったと言ってもいい。
その努力のひとつのまとめとして、かつて「人間悪の起源」という論考を書いたことがあって、研究所の会報には掲載したことがあるが、このブログでは未公開である。
少し前のものなので、いずれ見直しをしてから公開しようかと思っている。
ともかく私の場合、体験した世代の「戦争がどんなに悲惨か、知ってもらいたい」という気持ちは重すぎるくらいに伝わってしまったわけである。
直接体験をしたわけでないが、心の底から「戦争は嫌だ」という思いに共感する。
そうした共感を前提に、「二度と戦争をしてはいけない」という思いをもつみなさんに、もしかしたら聞きづらいかもしれないコメントをしたいと思う。
それは、思いを否定するのではなく、「二度と戦争をしたくない」という思いを遂げるには、思いに加えて現実の認識と行動が絶対的に不可欠だと考えるからである。
何を言いたいかというと、戦争をしないためには、「一億総懺悔」的にみんなで反省することだけでは不十分で、誰がリードして戦争をしたのかを明確に認識し、戦争することを決定するようなリーダーを、戦争はしないという決断と戦争をしなくてすむような状況創りのできるリーダーに取り換える必要がある、ということである。
戦前の日本は、代議制民主主義はまったくなかったわけではないが十分に機能するようなものではなく、庶民はリーダーたちにリードされて、積極的か消極的かの違いはあっても、戦争に巻き込まれざるをえなかったと思われる。
リーダーに逆らうことは「お国」に逆らうことであり、「非国民」のやることだと思わされていた庶民には、戦争反対の行動はきわめて困難だっただろう。
しかし、戦後の市民社会の市民としての国民は、戦前の庶民としての国民とはまったく違う条件を与えられている。
戦後の日本の代議制民主主義は、戦前と異なり、制度だけは整備されており、国民の投票行動次第で、リーダー・政府を取り換えることが可能になっている。
リーダー・政府は「お上」でも「お国」でもないし、間違っていると思ったら反対すること、場合によってはリーダーを取り換えることは、非国民的行為ではないどころか、国民の権利でもあり、場合によっては義務でさえある。
そして実際、国民はすでに一度政権交代を目の当たりにしたのである。
だとすれば、こういう好条件を使わない手はない。
「戦争は嫌だ」「二度と戦争をしてはいけない」という思いを一歩進めて、リーダーたちに「二度と戦争をさせない」よう、リーダー選びをする権利と可能性があることをしっかり認識し、そうした政治(特に投票)行動をする必要があるのではないか。
戦争があまりにも悲惨なことであり、戦争が心の底から嫌なのなら、「二度と戦争をしてはいけない」という思いを「二度と戦争をさせない」という思いと行動に一歩進める必要があるのではないか、それが民主主義国家の国民の権利でもあり義務でもあるのではありませんか、と読者に問いかけたい。
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