神の死とニヒリズム:ニーチェの言葉

2007年10月27日 | 生きる意味

 過去の記事「近代化の徹底とニヒリズム」で、次のように書きました。


 欧米では、もっと早い時代に、近代的な理性・科学によってキリスト教の神話が批判され、もはやそのまま信じることはできないというふうになり、ニーチェという思想家の言葉でいうと「神の死」と「ニヒリズム」がやってきたわけです。

 そして、日本では開国-明治維新と敗戦という二段階のプロセスを経て、そういう欧米的な近代的な理性・科学が社会に浸透し、いまや「神仏儒習合」の世界観が決定的に崩壊しつつあって(いわば「神仏天の死」)、遅れて本格的なニヒリズムが社会を脅かしつつあるのではないでしょうか。


 ここで確認のために、神の死とニヒリズムについて述べたニーチェの言葉を引用しておきます。


 ばかげた人――諸君はあのばかげた人のことを聞かなかったか。彼は明るい午前中にカンテラをともし、市場へ走り、たえず「私は神を捜している! 私は神を捜している!」と叫んだ。市場にはちょうど神を信じない人たちが大勢集まっていたので、彼は大笑をかった。いったい神が行方不明になったのか? とある者はいった。神が子どものように道に迷ったのか? と別の者はいった。それとも、神は隠れているのか? 神はわれわれを怖がっているのか? 神は船に乗ったのか? 移民になったのか? 彼らはてんでに叫び、笑った。ばかげた人は彼らのただなかにとびこみ、彼らをじっと見すえた。「神はどこへいったか? 」、彼は叫んだ、「私がそれを諸君にいおう! われわれが神を殺したのだ――君と私が! われわれは、皆、神の殺害者だ! しかし、どうしてそうしたのか? どうしてわれわれは海をのみほすことができたのか? 水平線全体を拭きさるための海綿をだれがわれわれにくれたのか?  この大地をその太陽の鎖から切り離したとき、われわれはなにをしたのか?  いまや大地はどこに向かって動いているのか? われわれはどこに向かって動いているのか? すべての太陽から離れていくのか? われわれはたえまなく突進しているのではないか?  しかも後へか、横へか、前へか、四方八方へか? まだ上下があるのか? われわれはいわば無限の虚無をさまよっているのではないか? われわれに息を吐きかけているのは空虚な空間ではないか? 寒くなってきたのではないか? たえず夜が、いっそうの夜が、やってくるのではないか? 午前中カンテラに火をともすのもやむをえないではないか? 神を埋葬する墓掘り人たちの騒ぎはまだ聞こえないか? 神の腐るにおいはまだしてこないか? 神々もまた腐るのだ! 神は死んだ! 神は死んだままだ! しかも、われわれが神を殺したのだ! あらゆる殺害者中の殺害者たるわれわれは、どうしてみずからを慰めたらよいのか? 世界がこれまでにもった、もっとも神聖でもっとも強力なもの、それがわれわれの短刀の下に血を流して死んだのだ――だれがこの血をわれわれからふきとってくれようか? われわれはどんな水でわが身を清めることができようか? どんな贖罪の祭り、どんな聖劇をわれわれは発明しなければならないか? この行為の偉大さはわれわれには偉大すぎるのではないか? われわれがこの行為にふさわしくみえるためだけでも、われわれはみずから神になる必要がありはせぬか? これよりも偉大な行為はたえてなかった――われわれの後に生まれてくるほどの者は、とにかく、この行為のおかげで、これまでのあらゆる歴史より高い歴史に属することになる!」――ここでばかげた人は沈黙し、ふたたび聴衆たちを凝視した。彼らもまた沈黙し、不思議そうにこの人間を注視した。とうとう彼はカンテラを地面に投げつけたので、それは粉々に割れて消えた。そこで彼は語った。「私は早く来すぎた。いまはまだ私の時ではないのだ。このすさまじい出来事はまだ途上にあり、進行中である――それはまだ人間たちの耳にはいっていないのだ。稲妻も雷鳴も時間を要する。星辰の光は時を要する。行為は、それがなされた後でも、見られ聞かれるために、時間を要する。この行為は、人間たちにとって、もっとも遠い星よりもいぜんとしてなお遠いのだ――しかも、それにもかかわらず、彼らがこの行為をなしたのだ!」――なお人びとの物語るところによれば、このばかげた人は、同じ日に、いろいろな教会に侵入し、神のための永遠の鎮魂曲を歌った。外に連れだされ、詰問されると、彼はいつもただつぎのように答えたという。「これらの教会は、神の墓穴、その墓標でないとしたら、いったい、なおなんであるのか? 」――(『悦ばしい知識』1882年、第3章125)。


 一 ニヒリズムは戸口に立っている。あらゆる訪問客のなかでもっとも不気味なこの客はどこからくるのか?――出発点。ニヒリズムの原因として、「社会的な困窮状態」、あるいは、「生理学的な変質」、それどころか、腐敗に言及するのは、見当違いである。現代はこのうえなく品のよい、また、このうえなく思いやりの深い時代なのだ。困窮は、それが心的な困窮であれ、身体的な困窮であれ、知的な困窮であれ、それ自体としては、ニヒリズム(つまり、価値、意味、願わしいものの徹底的な拒否)を生むことは断じてできない。これらの困窮は、いぜんとして、まったく種々さまざまな解釈を許すのである。むしろ、ニヒリズムは一つのまったく特定の解釈、つまりキリスト教的・道徳的な解釈のうちにひそんでいる。
二 キリスト教の没落――これは(キリスト教と不可分の――)道徳による。つまり、この道徳はキリスト教の神に逆らう(キリスト教によって高度に発達し、キリスト教的なすべての世界解釈と歴史解釈にみられる虚偽や欺瞞にたいして吐き気を催すようになる誠実の感覚)。(遺稿集『力への意志』1906年、1)

 ニヒリズムはなにを意味するか?――最高の諸価値が無価値化されるということだ。目標が欠けている。「なんのために?」への答えが欠けている。(2)

 結局、なにが起こったのか? 生存の全体的性格は「目的」という概念によっても、「統一」という概念によっても、「真理」という概念によっても解釈されてはならない、ということが理解されたとき、無価値性の感情が得られたのである。そういうものによって、なにかが目ざされたり、達成されたりすることはないのである。出来事の多様性のなかには包越的な統一性はないのである。生存の性格は「真」ではなくて、偽である……真なる世界があると納得する根拠は、もはや絶対にない……要するに、われわれが世界に価値をおき入れたさいに用いた「目的」「統一」「存在」などの範疇は、われわれによってふたたび抜きさられ、――いまや、世界は無価値なものにみえる……(12)


 こうしたニーチェのニヒリズムの到来についての先見性、神話的な宗教のコスモロジーが崩壊した後にいかにしてニヒリズムを克服するか格闘したことについては、深く敬意を表したいと思いますが、その格闘の結果については、今私たちの時代が到達した地点から見るとなんともいえない痛々しさを感じます。

 これまで述べたことの繰り返しになりますが、近代科学で見れば、「出来事の多様性のなかには包越的な統一性はない」ように見えたのですが、現代科学はもはや疑う余地もないほど明らかに宇宙の多様性・複雑性には自己組織化という方向性があることを示しています。1) 2)

 そういう意味からすると、「ニヒリズムはもう古い」と言わざるをえない、と私には見えますが、3) 4) 5) みなさんはどうお考えでしょうか。



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コメント (1)    この記事についてブログを書く
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1 コメント

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ふむ (ある者)
2013-04-19 00:21:11
ではその宇宙とはなにかね?
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