敵意を抱いている衆生に直面する難しさ:唯識のことば20

2017年02月16日 | 仏教・宗教

 大乗の菩薩があえて引き受けて行なう十種類の難行、前回に第三をご紹介しました。続いて第四の難行です。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。…十種の実行しがたい正しい行を包括している…

 第三は背を向けないという難行である。衆生が悪をなしても(なすからこそ)、ひたすらに彼に向かうからである。

 第四は直面するという難行である。敵意を抱いている衆生に直面し、そのためにあらゆる利益になることを実行するからである。

                       (摂大乗論第七章)


 これは、多くの方が読んでお感じになるとおり、もう大変な難行です。

 しかしこの言葉は、イエスの「汝の敵を愛せよ」とおなじように、「私にはとてもできることではない」と思いながらも、ある種の感動を受ける言葉です。

 第三の「背を向けない」というのよりももっと積極的な姿勢で、「敵意を抱いている衆生に直面し、そのためにあらゆる利益をなることを実行する」のですから、難行中の難行でしょう。

 しかも第三でいわれる「衆生が悪をなしても」というのは、文脈上、私に直接敵意を抱いて害を加えようとするのではなく、いわばそのあたりで悪いことをしているということです。

 自分に直接害がなくても、いろいろ悪いことをする人間があまりにもたくさんいることを見聞きするだけでも、もう世の中がいやになってしまいがちです。

 ところが、第四で語られる「衆生」は、敵意を抱いているわけですから、直接自分への被害がありそうです。

 それほど大げさなことではありませんが、筆者も教育やある種セラピー的なことに関わっていると、「恩を仇で返す」タイプの方に出会うことがありました。

 その方の「自分で自分を不幸にする」ような考え方や生き方を、ご本人のために変えることを提案せざるをえないのですが、タイミングが悪いと、びっくりするほど攻撃的な態度を示されたことがあります。

 幸いにしてその理由も学び、またかなり慣れてきたので、なんとか対応できるようになりましたが、かなり心理的にきついこともありました。

 それは、たとえ自滅型のものであってご自分のアイデンティティなので、「変えてはいかがですか」という提案が、「変えろ」という命令、「それではダメだ」という非難、「変えさせてやる」という攻撃に感じられるからなのだ…とわかっていても、こちらもまだ境地の浅い駆け出し菩薩なので、つい「じゃ、勝手にしろ」とか思いそうになったりしたものです。

 その程度のことでも大変だったのですから、ましてもっとはっきり敵意を向けてくる人に対応するのはもっと大変な難行だと思います。

 しかし例えば、自分の胃腸が病気で自分に痛みをもたらしても、それは自分の一部なので、復讐するわけにはいきません。

 痛みを感じながら、なんとか治療の努力をするわけです。

 確かに困難ですが、「私に敵意を抱く衆生も〔広く深い意味での〕私の一部なのだ」と思う努力をしながら、当面の自分の実力相応のことをしていくことにしています。


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