人間の欲望は限りがないかという問題について、もう1つ重要なポイントがあります。
それは、多くの人の常識と異なり、人間の欲望は生まれつき具わった部分よりも、文化によって作られる部分のほうがきわめて大きいということです。
民族学の研究によれば、人類はすべて、生物学的には同一の種でありながら、「人種」という言葉もあるくらい、世界にはまるで違った生活の仕方、文化のあり方、意識のあり方がさまざまに存在しています。
そして、文化が違うと価値観もまるで違ったりするようです。
ある文化では価値のあるものとされているものが、他の文化ではまるで価値がなかったり、それどころか価値の反対、卑しいもの、さげすまれるもの、嫌われるもの、悪いものとして徹底的に否定されるものだったりするようです。
「本能」であると思われる食欲についていえば、確かに生命を維持するために空腹になったら「何か」を食べたいと感じるという意味での食欲は、生まれつきのものですし、生きているかぎり基本的にはなくならないし、なくすことはできないし、それどころかなくなると困るものです。
しかし、具体的に「何」を食べたいと思うかは、生まれつきのもの・本能ではなさそうです。
例えば、納豆を食べる習慣つまり食文化のある関東では、納豆が好き、納豆を食べたいという人が少なくありません。
ところが、そういう食文化のない関西では、納豆大嫌い、食べたくないどころか、見るのも嫌だという人が多いようです。
それは、もちろん個人の好みという面もありますが、食文化による面もそうとう大きいのではないでしょうか。
「納豆を食べたい」という欲望は、食文化によって作られたという面が大きいのです。
こういう例は挙げていくと無数にあると思われます。ぜひ、みなさんも考えてみてください。
ともかく、自分の所属している文化の中で、それがいいもの・価値あるものだと見なされていると、生理的はまったく必要ないものでも、それが欲しくなる、欲望が生まれてくるのです。
言い換えると、「欲望は文化によって作られる」ということです。
このあたりは、社会心理学や広告理論ではほとんど常識のようです。
さて、欲望は文化によって作られるものだということがわかると、なぜ、「欲望は限りがない」ように見えるかもわかってきます。
それは、欲望を限りなく煽るような文化の中にいると、欲望は限りなく肥大していくということです。
しかし、民族学の報告によれば、欲望を煽らないような文化の中に住んでいるネイティヴの人々は、物質的にはごく質素な生活でしかも十分満足して生きている(いた?)ようです。
いまや、文明に汚染されて変わりつつあるようですが、典型的には「サン族」(ブッシュマンと呼ばれていた)のフィールドワークを読むと、彼らはごく限られた自然な欲求の満足だけで心理的にはとても豊かな生活をしていたように見えます。
それに対し西洋近代では、科学技術と産業の発展によって大量生産が可能になり、資本家・企業人が大量販売を望み、大衆に大量に消費するよう広告などで動機づけをするという資本主義的な商品経済システムが成立しました。
そこでは、消費者の「購買意欲」つまり欲望が限りなく肥大していくことが、経済を活性化するいいことだと見えるようになりました。
また、確かにある面で経済を活性化し、一定程度の範囲で長い間人類が悩まされてきた「貧困」という問題を克服できるかに見えてきました。
しかし、それはいわゆる先進国だけのことでしたし、それは資本主義市場経済のグローバリゼーションが進んでも、「南北問題」というかたちで未解決のまま続くでしょう。
さらに、今、欲望の限りない肥大化による経済の成長は、環境の有限性という限界に突き当たっています。
大量生産-大量販売-大量消費によって活性化し成長し続けられるはずだった資本主義商品経済というシステムは、1つは大量生産の前提である大量の原料=資源の有限性と、もう1つは結果として生まれてくる大量廃棄物の蓄積=自然の浄化能力の限界という2つ限界に直面しているのです。
けれども、いったん社会のシステムが出来上がってしまうと、そのサイクルはなかなか止めにくいのです。人々の日々の暮らしがそのシステムに乗って行なわれているわけですから。
資本主義商品経済というシステムでは、大量消費を止めにくいどころか、むしろ広告などによって購買意欲=欲望を無限に煽り、どんどん購買し消費してもらう必要があります。
そういう理由で、資本主義社会で生活していると「欲望には限りがない」ように見えるのです。
しかし、先にも言ったように、欲望は文化によって作られるので、文化が欲望を煽ればどんどん肥大しますが、文化が欲望を鎮める方向に向かっていれば鎮めることもできるはずです。
と言うと、「そんなことを言ったって、日本は資本主義社会なのだから、文化が欲望を鎮めるような方向に向かうはずがないではないか」という反論が出てきそうです。
それは、確かに当面そうです。
しかし、もう1つ、人間は社会・文化からの情報によって影響を受けるのですから、個人が意識的になれば、情報を選択したり、遮断したりするというコントロールをすることができるのです。
個人は、社会によって欲望を煽られっぱなしになるだけではなく、自分で自分の心をコントロールすることもできます。
それが、人間に与えられている「意思の自由」です。
私たちは、意思の自由という能力を行使して、必要以上に欲望を煽られることを拒否することができますし、さらには煽られた欲望なら鎮めることもできるのです。
さらに、幸いにして民主主義社会にいる私たちは、思想・言論の自由、集会・結社の自由を行使して、文化そのものを欲望を鎮めるような文化に変えるよう働きかけることができます。
多くの日本人が民主主義社会にいながら忘れていることは、民主主義社会では選挙などの民主的な手続きによって一滴の血も流すことなく、社会システムさえ変えることができるということです。
多くの血が流れる「暴力革命」などなしに、ごく穏やかな方法で社会システムを変えることができるのですし、社会・政治システムを変えることができれば、文化システムが変わるよう誘導することも当然可能になります。
前にお話しした4象限理論でいえば、持続可能な社会を心から望む個人が(左上)、文化が持続可能な社会に向かうような文化になるよう働きかけ、それが多数の賛同を得て主流文化になれば(左下)、その多数の意思により民主的な手続きを通して社会システムを変更することが可能になります(右下)。
そうすると変更された社会システムによって、例えば教育制度などを通して、文化も欲望を煽る文化から鎮める文化へと誘導し変えていくことができるはずです。
別の言い方をすれば、日本文化が全体としては今のところ欲望・神経症的欲求を肥大させる文化になっているとしても、神経症的欲求を自然で適度な欲求へと癒していくような文化を、やりようによってはこれから創出しうるということです。
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マスコミが絶えず流し続ける広告によって欲望は刺激され「あれが欲しい、これが欲しい」と生きる目的を物欲に求め続けてしまうのでしょう。
物質的な自己の欲望に価値を見い出し、それを追い求めているだけの人生ならば、「満たされない心のむなしさから、気をまぎらわすだけの人生」で終わってしまいます。
物欲という執着心から自らの心を解放し、何ものにもとらわれずに、精神的に自由となって、自己を高め成長させていくことこそが、究極の喜びであり安らぎであるのだと思います。
このことを自らが悟り、周囲の人々に伝え広めていくことで、この国の文化として定着していけるのではないでしょうか。