自然な欲求には限度がある――欲求と欲望の区別

2006年09月20日 | 持続可能な社会

 人間の欲望または欲求について考える時、非常に役に立つ仮説があります。あくまでも仮説ですが、そうとうの妥当性があると思われるもので、エイブラハム・マズローというアメリカの心理学者が立てた「欲求の階層構造仮説」という説です。

 これは日本では、ほとんど産業心理学的にしか使われておらず、大切なポイントが十分理解されていない面があるようですが、人間というものを考える時、非常に大きなヒントになると思います。

 簡単にご紹介しますと、マズローは「人間の基本的で自然な欲求は、ある種の階層構造をなしている」と言っています。

 いちばん基本的で低いところに生理的な欲求があり、それはいちばん基礎的なものだから非常に切実ではあるけれども、それが満たされると人間はそれだけで満足できるかというとそうではなくて、満たされてしまうとそれは大した問題ではないような気がしてきて、次に安全と安定の欲求が現われてくるのです。

 いわば、お腹がいっぱいでも、いつ殴られるかわからない状況にいたら、人間は満足できないということです。

 そして安全と安定が満たされていても、自分のことを愛してくれる親がいて家族の中で自分の所属の場所があることへの欲求、つまり愛と所属の欲求が次に出てくるのです。どちらが優先度が高いかというと、安定欲求のほうが優先度が高いのです。

 例えば、そうとう暴力的な親にでも小さな子どもはしがみついてしまうという現象があるようですが、それは、やさしいかもしれないけれども知らないおじさん・おばさんのところに連れて行かれるよりも、愛していない親の側でもそのほうがよく知った安定している環境だからなのです。

 それはともかく、安全と安定が満たされても、それで人間は満足できるわけではなく、次には愛と所属の欲求が出てくる。

 では、愛され、所属する家族や集団があれば人間は満足できるかというと、それもそうではない。人間はある年齢になると、心の中が見る自分と見られる自分に分かれていきます。自己イメージというものです。そのとき、こちらから見ている私が、見られている私=自己イメージをOKと思う、承認する、自分が自分を認める。そして、それを保証するように外からの承認もなされる。その両方の承認がなければ人間は満足できない。それを承認欲求といいます。

 ところがさらに、人間の欲求は承認欲求まで満たされたら終わりかというと、そうではなく、さらに、この世に生まれてきた、他の誰でもない、この私でなければできないことをやりたい。しかもそれを身勝手にするというのではありません。この世に生まれてきたということは、他の人々の中に他の人々とともにこの世界に生まれているということですから、私のよく生きることと他人によい影響を与えることが一致したようなかたちで私がよく生きるというふうに生きたいという欲求が出てきます。それを「自己実現欲求」と呼んでいます。

 ところが、いくら自己実現をやっても、人間は最後には死ぬのですから、それだけだとやはりむなしいのです。そうすると、この有限の死んでしまうような自分というものをさらに超えて、もっと永遠なるものに結びつきたいという自己超越欲求をもつのです。

 このように、自己実現欲求と自己超越欲求までもつようになっていく、それが人間の基本的な性質であるというものです。

 人間の自然な基本的な「欲求」というのは、英語で言うと need で、必要ということでもあるのです。

 そういう必要・欲求には限度があって、例えば水を飲みたいと思ったとしても、ボトル五本持ってきて「ぜんぶ飲め」と言われても、飲みたくありません。一口か二口、のどの渇きが収まるくらいに飲んだらもういらないのです。

このように自然な欲求には必ず限度がある、とマズローは言っています。

 そして、適当な時に、適当な程度満たされると、欲求の階層構造はあがっていく、自然の欲求は満たせば満たすほど高次の欲求になっていって、高次の欲求はついには自己実現欲求、自己超越欲求にまで成長していくというのが人間の本質である、とマズローは言っています。

 これは、仮説といっても、たくさんの臨床やさまざまなデータに基づいており、ただの願望の理論ではありません。十分なセラピーや臨床実験や統計調査があります。

 ところで、成長のプロセスで適当な時に適当な程度に満たされないと、それへの無意識の固着・こだわりが起こります。

 例えば、小さい時に十分に愛されないと、愛されることに対して無意識の固着が起こります。

 子どもは親から愛されなくても、小さい時は自分ではどうしようもありませんから、「私はどうせ愛されない存在なんだ」とか、「愛されることなんか問題じゃないんだ」というふうに、心の中で愛されるという欲求を抑圧することによってなんとか耐えて生きるわけです。

 そうすると、大人になった時、ほんとうには愛されたいのに、「愛されっこないんだ」と思っていたり、「愛されなくてもいいのだ」と思っていたりするから、すねたり、攻撃的になったりして、愛されるような行動がとれないわけです。

 そうすると、当然愛されません。すると、欲求は満たされません。満たされないのだけれど、何が満たされないかわかっていないから、満たしてくれるその当のものではなく他のものを求めていってしまうのです。

 例えば、承認欲求が満たされていないと、ほんとうは承認を受けたいのに、承認を受けられるような適切な行動がとれなくなるのです。

 例えば非行も、理論的な説明だけは簡単にできます。人から注目されたい、認めてほしいのです。自分でも自信をもちたいのです。それができないから、つっぱって、目立って、人の目を引いて、悪さをするのですが、それではほんとうの社会的承認は得られませんし、自分でもほんとうに自信がもてないので、いつまでたっても満足できないし、うまくいかないのです。

 ところが、どういう行動をすればきちんと社会的に承認を受けられるか、大人の理性をもっていて考えればわかりきったことであり、そういう行動をすれば承認を受けられるのです。承認を受ければ満足できるのです。承認を受けて満足すると、あまりそれにこだわらなくなります。

 くり返しますが、適時に適度に満たされないと無意識的な固着が起こります。そして、ゆがんでしまって、何がほしいのか、どうすれば得られるのかがわからないままの――マズローはこの状態を「神経症的欲求」と呼んでいます――「神経症的な欲求構造」ができてしまいます。ノイローゼというのは、その原因が自分ではわからないからノイローゼになるのです。こういう欲求も、ほんとうには何がほしいのかわからないまま正しくない求め方で正しくないものを求めてしまうからうまく満たされないのです。

 しかし、基本的な欲求というのは、やり方によってはっきりと意識化することができるし、そうすると意識的に適度に満たすことができるし、そうすると神経症的な欲求構造は癒すことができるのです。

 つまり、「欲望」と呼ばれてきたものは、マズローの用語で言い換えると「神経症的な欲求」なのです。

 そして、近代の経済的な物質的な繁栄――というよりも、むしろ感覚的な刺激といったほうがいいと思うのですが――の追求の底に潜んでいるのは、感覚的な刺激を求めるために物質やお金がほしいという欲望=神経症的欲求の面があるではないでしょうか。基本的には物がほしいというより、物による刺激がほしいのです。

 なぜ刺激がほしいかというと、むなしいからほしいのです。むなしくなくなるようにすればいいのに、むなしさを紛らわせるものがほしいのです。ほとんどの余分な浪費消費は、むなしさをまぎらわせたいから、いらないものを買ったり使ったりするのです。原理的には簡単です。むなしくなくなれば、いらなくなるわけです。

 近代の欲望の大部分は、過去に貧しい経験をしたために、生理的・物質的な欲求に固着してしまったか、安定性に問題があったために、安全を守るために金がはてしなくほしいというふうになってしまったか、あるいは愛と所属が満たされなかったために、絶えず自分のまわりに人を引きつけておくことのできるような権力や金がほしくなったかというところに原因があるように見えます。

 例えば、承認されるためには日本では金持ちになればいいわけです。人生に生きがいがないといっても、金があっていろいろと遊んでいればむなしさをだいたい忘れていられるわけです。自己実現できなくても、金があれば日々気晴らしはできるわけです。

 ということは逆に言えば、基本的欲求が順次満たされ、自己実現まで到達できれば、物資的な富はそこそこ必要なだけあればいいというふうに人間の心は変わるはずです。これは仮説ですが、セラピーやワークショップをやっていると、かなり妥当性のある人間観ではないかと思っています。

 さらに、北欧諸国の例を見ていると、大きな社会集団-国家レベルでも妥当性のある洞察だと思えます。基本的欲求について十分に満たされている「福祉社会」では、国民の多くが環境を破壊してまで物質的欲望を追求する必要はないと感じているようです。

 そういうわけで、従来の「意識的な学習と意思によって欲望を抑制する」というアプローチを全面的に否定する必要はまったくないのですが、それだけではどうにもならない無意識の欲望状態を自然な欲求構造に変えることも原理的にいって可能であり、それが必要だ、と私は考えています。

 これを、どうやって私・個人から始まって社会全体の文化にするか。これが問題です。また、そういう個人とそういう集団がどうやって社会の主導権――まさにデーモス・クラティア――を握るか、ということが課題です。

 しかし、少なくともそういうふうに考えていくと、欲望を自然な欲求へと治癒することも、欲望を煽り立てるような社会を自然な欲求を自然に満たしていくような社会に変えていくことも、理論的に可能ですし、方法論もあります。あと残っているのは、どれくらいみんなが実行する気になるかということだけだ、と私は感じています。



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5 コメント

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欲求について (kana-h)
2006-09-21 15:17:04
 ブッダが生理的・物質的欲求に満たされた王子の地位を捨て、出家の道に進んだのは、幼くして亡くなった母親の愛情欲求が欠乏していたからなのかも知れません。



 愛が満たされた人は、他に愛を要求せずに、愛を与えることで幸せを感じることができます。人は自分の幸せのためだけに生きようとすれば、思い通りにならずに不幸になり、他の幸せのために生き、愛を与えようとすることで、相手の幸せと喜びが自分の幸せとなれるのだと思います。



 欲求とは成長しようとするエネルギーです。欲求を自らのエゴに向けると、エゴは肥大化し、自分のことしか考えられなくなり、我欲が満たされず、人を怨んだり責任を人のせいにして成長が止まり、心を病んでしまいます。

 欲求がエゴという狭い枠を超えて、すべての人々の幸せに向かうならば、ストレスはなくなり、心は安らぎと喜びと幸せに満たされ、心の温かい寛大な人間として成長していけるのではないでしょうか。

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Unknown (YOKO)
2006-09-22 07:27:16
やせ我慢でも からいばりでもなく

「無所有の豊かさ」というものがあるのだと思います。



マズローの5段階目で自己超越を遂げたらそれで終わりなのではなく、今度はこの現実世界になんらかのはたらきかけをする、それがいわゆる菩薩であり、菩薩行為になるのだと、そう思います。私たちも菩薩になりうるのだと。

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Unknown (きぼう屋)
2006-09-23 23:52:28
はじめまして。

マズローのテーゼは、学部時代にマーケティング論のゼミで学んだ時の、最初のテーマでした。しかし、その時はこのテーゼでもって、消費者の心理を、今考えると、どうやって操作するか、みたいなことを議論するだけで、その本来の目的、人間性や、病ということを考えたことがなく・・・その後も分野が変わってから、このテーゼを学びなおすこともなく、今日に至り、でも、今、こうして、ココに出会い、学ぶきっかけを頂きました。感謝です。また来て学ばせていただきたいです。
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手法を編み出しましょう (Hbar)
2006-09-24 14:04:16
私の「何を教えるか」もメソッドに結び付る為に色々と苦労しております。文字化したものが初めからあれば良いのですが、現代風になったものは産出さねば仕様がありません。

明るい明日を信じて頑張りましょう。
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コメントありがとうございます (おかの)
2006-09-28 18:42:27
>コメントしてくださったみなさん



 ここのところ、大学の後期の授業が始まったり、シンポジウムの準備が忙しかったり、その他いろいろで、記事を書くので手一杯、返事ができなくて失礼していました。



 続けて読んでくださってありがとうございます。



 ぜひ、ご一緒に考え行動して、日本をもっといい国にしていきましょう。



 今後ともよろしくお願い致します。

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