漸進的転換:唯識のことば38

2017年03月09日 | 仏教・宗教

 この転依ということを略して解説すれば、六種の転換がある。

 第一には効力を増し能力を減ずるという転換である。

 随信楽の位によって、聞くことによる熏習の力を保持するからである。

 煩悩は、恥じるということがあった上で働くので、しばらくは弱く働くようになり、やがて永遠に働かなくなる。
                         (『摂大乗論』第九章より)


 私たちは、毎日の出来事の中で、嬉しい・悲しい、幸福だ・不幸だなどと感じながら生きています。

 それはふつう(つまり凡夫)のことですが、ふつうといっても一種類ではなく、同じような出来事に対して、強く感じる人、あまり感じない人、そして感じていても振り回されない人がいるように見えます。

 なかでも感じやすい性格の人は、厳しい状況に対しても感じすぎるので、なかなか生きづらいものです。

 そこで、あまり感じないほうがいいと思い、鈍感になろうとしたりします。

 しかし鈍感になって心が動じなくなったのでは、せっかくのこの人生と世界の美しさ・すばらしさを感受する能力も失います。

 感性豊かでありながら、しかもそれに振り回されない心はどうしたら獲得できるのでしょうか。

 それには、性格の根っこである、アーラヤ識が変容する必要があるようです。

 では、どうしたらアーラヤ識を変容させることができるでしょう。

 先の句に対する注釈はこうです。「アーラヤ識のなかに聞くことによる熏習の効能がさらに増すのを、『効力を増す』という。アーラヤ識のなかに保有されているもろもろの迷いの熏習が、治療が起こって、本来の能力がなくなるのを、『能力を減ずる』という。…この増減は、聞くことによる熏習の力を原因とし…修行の智慧を生じる。…この力によるので、増減ということが成り立つ」と。

 自分の願望・価値観など――たとえ一見無理のない平凡な小市民的幸福といったものであっても――を絶対化し、それに強く執着すればするほど、怒りや恨み、妬み、落ち込み……といった煩悩は激しくなり、自分で自分を苦しめることになります。

 求めてはいけないのではなく、ポイントは執着しないことにあります。

 求められる対象も、求める自分そのものも無常の存在ですから、執着してもしきれない、しなくていいのですが、私たちはともすればそれを忘れますから、事実を照らす言葉を繰り返し聞いて、思い出す必要があります。

 その繰り返しが熏習され、アーラヤ識を変容させ、執着と、その結果生まれる強い煩悩を軽減していきます。

 注釈には「人がこの転依を獲得すれば、煩悩がもし起こっても恥じる気持ちが生まれるので、起こっても長くは続かず、また微弱である。あるいは、永遠に起こらなくなる」とあります。

 落ち込みという煩悩についていえば、「こんなに切実な私の願いがかなわないのだから、落ち込むのは当たり前」と取らず、「そうか、過剰に執着しているから過剰に反応したのだな。でも、なるべくそうなったほうがいいが、絶対にそうなる保証はこの宇宙にはない。そのことを忘れていた。求めるのはいいが、こだわるのはやめよう」と反省すると、自然なある程度の失望感はあっても、過剰なうつや絶望感には襲われないようです。


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