第五願は六波羅蜜の第五「禅定」に関する願、「禅定成就遠離諸蓋散動」で、「禅定が完成しもろもろの心の乱れ・煩悩から遠ざかることができる」ようにという願である。
……菩薩大士が禅定波羅蜜多を修行していて、もろもろの衆生が貪り、怒り、落ち込み、放心、はしゃぎ、後悔、疑いに覆われ、気づきを失い、気ままで、四種類の禅定、四種類の無量の禅定、四種類の物質性を超えた禅定さえ修行することができず、まして世間を超えた禅定を修得することなどできないことを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはそうした煩悩に心を動かされるような有情たちがおらず、すべての有情が自由自在にもろもろの禅定、無量の禅定、物質性を超えた禅定などに遊ぶことができるようにしよう」と。……
仏教では、過剰な欲望や怒りや憎しみなどのネガティヴな心の働きを「煩悩」と呼んでおり、「蓋(がい)」はその別名である。そして、すべての煩悩の源泉は「無明」にあると捉えている。「無明」とは、自分や世界のほんとうの姿が見えていない・明らかでないということである。
では、なぜふつうの人間(凡夫)は無明という心の状態にあるのか。すでに述べたことを簡単に繰り返すと、人間は言葉とりわけ名詞を使って自分や世界を認識するために、すべてのものが分離独立した実体(我)に見えてしまうのだった。そういう人間の無明の認識の仕方をすべてのものを分け別れたものとして知るという意味で「分別知」というのだった。
特に自分を実体だと錯覚してしまうと、実体である自分はすべての中心であり絶対に維持すべきものだと思えてきて過剰な執着が起こる。つまりエゴイズムが生まれるのであり、エゴイズムからさまざまな煩悩が生まれる。
逆の順で言うと、さまざまな煩悩はエゴイズム・自我の中心視から、自我の中心視は自我の実体視から、自我の実体視は分別知・無明から生まれるのであった。
その分別知・無明を解決するには、分別知を超えた智慧を得る必要があり、智慧を得るための方法のもっとも重要なものが「禅定」なのである。
「禅定」とは、まずサンスクリット原語の「ディヤーナ」を音で写した「禅那」という漢訳語があって、その前半「禅」に精神集中という意味の漢字「定」を足して中国で作られた用語で、大まかに言っておけば精神集中・瞑想のことである。
ふつうの人間は、ふだん心の中で言葉をめぐらしていろいろなことを考えている。それは、言葉とりわけ名詞で多様なことすべてを分別しているということであり、結局無明の心の働きである。
そうした無明・分別知を超えるには、まずいろいろなことを考え・分別するのをやめて、心の中の言葉を沈黙させて、一つのことに集中する。瞑想法としてはいろいろなものがあるが、典型的には呼吸に集中するのである。ひたすら呼吸に意識を集中していると、いわゆる「一心」になる。そして、一心が深まるといろいろなことをまったく考えていない・分別していないという意味で「無心」に到る。「無心」は言い換えると「無分別」であり、徹底的な無心・無分別はすべてが空・一如であるという「智慧=無分別智」に到達する。
智慧・無分別智に到ると、無明は超えられ、自我の実体視・中心視は超えられ、煩悩は根本から解消されるのである(実際の修行のプロセスは紆余曲折や行ったり来たりがあって、こんなにシンプルではないが、大筋だけ言えばこうなる)。
つまり、人間同士が貪り合い、憎み合い、争い合うという煩悩から根本的に解放されるためには、無明・分別知を乗り越える必要があり、分別知を乗り越えるには無分別智に到る必要があり、無分別智に到るにはその方法としての禅定を実践することが必要なのである。無分別智に到ると、すべてのもの(者・物)が一体・一如であると覚られて、そこから自然に慈悲が生まれるのだという。
禅定の意味や種類について詳しくは後の章で述べるが、「もし私たちがほんとうに人と人とが慈しみ合う美しい世界・仏国土を創り出したいのなら、すべての人が禅定を実践しなければならない」と『大般若経』は言っていると筆者は理解する。
それは、現代の私たちにとっては先に述べたような「条件付きのねばならない」であって、「強制的な・無条件のねばならない」であると取る必要はないかもしれない。
しかし、今人類社会は争い合いながら衰退そして滅亡へと向かうか、合意と平和によって人類の総力をあげて問題に立ち向かい、生き延びる、つまり持続可能な世界秩序を創り上げるかという岐路に立っているのではないだろうか。
(これは、大げさな状況判断ではないと筆者は思っているが、読者はどう考えられるだろう。)
もしそうだとしたら、生き延びたいと願う者にとっては、禅定はまず自分から始めてやがてすべての人がしなければならない・必須のことだと言えるのではないだろうか。
そして、マインドフルネス瞑想などの世界的流行は、その先駆け的現象なのかもしれない、と筆者は思っている。
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