忍辱の瞑想:唯識のことば32

2017年03月03日 | 仏教・宗教

 五義とは、

 一には「すべての衆生=生きとし生けるものは無限の過去から私にさまざまな恩恵を与えてくれている(だからこそ、いまここで私が生きることができるのだ)」と洞察する。

 二には「すべての衆生は、瞬間ごとに過ぎ去り滅びていくものである、いったい誰が傷つけ、誰が傷つけられるということが(仮にはともかく実体として)あるのか」と洞察する。

 三には「ただ法〔真理=存在=一体の宇宙〕があるだけなのだから、(実体的に)傷つけ傷つけられるものがあるだろうか」と洞察する。

 四には「すべての衆生はみな彼自身すでに苦しみを受けている、なぜさらに苦しみを加えたいと願うのか」と洞察する。

 五には「すべての衆生は、みな我が子である。なぜ、それに対して害を与えたいと願うのか」と洞察する。  

 この五つの洞察によって深層の瞋りを滅ぼす。

 深層の瞋りが滅びれば、意識的な怒りや恨みはなくなってしまう。

                       (『摂大乗論釈』より)


 マナ識のあるところには、必ずといっていいほど争いがあります。

 ふつうの人間関係では、争いが絶えず、傷つけ、傷つけられるということがしょっちゅう起こるのです。

 そういう時、ふつうの人(凡夫)はどう対処するでしょうか。

 やられたら、やりかえす。

 あるいは、やりかえしたいけれど、相手が強すぎて、やりかえすと、もっとひどい目にあうから、我慢し、泣き寝入やゴマメの歯ぎしりをし、心の中で、恨み、憎み、呪う。

 あるいは、それができる時は、「嫌なヤツは嫌だ」と、相手から距離を置く……。

 だいたいそういうところでしょうが、菩薩=求道者なら、もうすこし違う、より賢い対応をしてはどうか、とヴァスバンドゥ菩薩(または真諦三蔵)は忠告してくれます。

 姿勢を調え、呼吸を調えて、静かに、引用した五つのことを瞑想・洞察する。

 洞察が深まると、無理して抑えるのではなく自然に、深層の瞋りがなくなる。

 瞋りがなくなれば、怒りや恨みが意識に湧き上がることもなくなる、というのです。

 ヴァスバンドゥ菩薩は、その後にとても大切なコメントを加えています。

 「この忍は、まず自分自身を瞋りという煩悩で汚し苦しめることをなくしてくれる」と。

 腹を立てている時は、自分も不快です。

 忍辱・許すことは、人のためというより、まず自分の心を爽やか・平和にしてくれるのです。

 「そして、自分の心が平和で、怒ったり恨んだりすることがなければ、他者を苦しめることもなくなる。

 すなわち、他者に対しても平和である。

 経典にこうある、忍を実行する人には、第一に恨みがない、第二に責めることがない、第三に人から愛される、第四に評判がよくなる、第五に次の世でいいところに生まれることができる、と。

 この五つの効果(徳)を、平和という。」

 傷つけられたと感じ、怒りや恨みで自分が苦しい時、まず自分の心の平和のために、この「五義観」という瞑想法を使ってみましょう。

 ゆっくり、しかし確実に心が癒されていくと思います。

 忍辱は損のようですが、心が得をするのです。

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菩薩の広大な意志:唯識のことば31

2017年03月02日 | 仏教・宗教

 広大な意志は、菩薩は数大カルパかけてこの上ない悟りを得ていくのだが、そうした時間を一瞬とする。

 菩薩はそうした時のなかで、一瞬一瞬に身命を捨て、ガンガー河(ガンジス)の砂の数に等しいほどの世界のなかに満ちている七種類の宝を捧げて如来に供養し、発心してから究極の清らかな悟りに悟入するに到っても、この菩薩の布施の心はなお満足しない。

 このように多くの時の一瞬一瞬に、三千大千世界に明るい灯を満たし、菩薩はそのなかで歩き、止まり、坐り、臥すことについて四つの威儀を保ち、一切の生命を維持するために必要なものがないときにも、菩薩は、持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の心をつねにありありと修行し、究極の清らかな悟りに悟入しても、この菩薩の持戒・忍辱などの意志は満足しない。

 これは飽き足りることのない心であって、これを菩薩の広大な意志と名づける。

                         (摂大乗論第四章より)


 私たち現代人の多くは、外界と分離した個人としての自分の身心だけが自己だと深く思い込んでいます(私もふと気づくとしょっちゅうそういう思い込みに退行しています)。

 しかし、唯識や道元・正法眼蔵やコスモロジーを学べば学ぶほど、〈自己〉は個人としての身心に限定されるのではなく、全コスモスこそが〈本当の自己〉であることを深く納得していきます。

 菩薩は、まだそのことを心の奥底まで覚った人=仏にはなっていないが、それを目指して修行している人です。

 そしてあるレベルまで行った菩薩は、完全ではないにしても、そのことに目覚めていますから、彼のタイム・スケールの感覚は、私たちの個人的な時間感覚とはまるで違うのです。

 数大カルパという個人にとっては想像を絶するような長い時間も、菩薩のコスモス大の意志にとっては、一瞬です。

 しかもそういう数大カルパであり一瞬でもある時間において、何度でも繰り返し個人としての命を捨てて、覚りの源泉である如来に献身し続けるのです。

 さらに、個人としては完全に行きづまり、生命を維持する手段が一切なくなった時でさえ、なお六波羅蜜を修行して止まないといいます。

 それどころか、個人の心の安らぎや満足の目標としてはそこで終わりになるはずの覚りを得ても、それでも満足をしないというのです。何というしつこさ、強烈さでしょう。

 「これは飽き足りることのない心であって、これを菩薩の広大な意志と名づける」といわれています。

 菩薩がこんなにも大きなスケールの意志をもつことができるのは、個人としての自分は実はコスモスの一部であり、自分が修行することは、一三八億年かけて持続しているコスモスの自己組織化・自己意識化の運動、つまりコスモス自身の修行の一部だと深く了解しているからです。

 ちょっとした苦しみで挫折するような志や意志は、志・意志とはいわない、このくらいのスケールの意志であってこそ、ほんとうの意志というのだ、ということばを聞く時、私たちは、身震いするような畏怖の念とともに、しかし私たちへの熱い期待と慈しみを奥底に秘めたコスモス・如来の叱咤激励の声を聞くのではないでしょうか。

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人間成長の六つの方法:唯識のことば30

2017年03月01日 | 仏教・宗教

 「また一切の衆生と共にあって成熟させるための依りどころだから」というのは、

 布施波羅蜜によって衆生に利益を与え、持戒波羅蜜によって衆生に害を与えない。

 忍辱波羅蜜によって彼らの迫害をあまんじて受け、恨みに報いる心を起こさない。

 精進波羅蜜によって、彼の善の機能を生えさせ、彼の悪の機能を枯らす。

 こうした利益を原因として、一切の衆生をみな教育・調整することができる。

 次に彼の心がまだ静寂さを得ていないならば静寂にさせるために、すでに静寂を得ているならば解脱させるために、禅定と智慧という波羅蜜を立てる。

 これら六つの悟りの彼岸へ到る手段によって、菩薩はよく衆生を教える。それゆえに、成熟させることができる。

                        (摂大乗論第四章より)


 「教えることは学ぶこと」ということばがあります。

 ただ学んだだけだと、実は学んだつもりなだけで、人に伝えようとしても記憶があいまいでちゃんと話せないとか、聞かれても説明できないとか、人生のいざという時に使えないということになりがちです。

 人に教えると、自分がきちんとつかんでいないとしどろもどろになりますから、真剣に学び、説明できるところまで理解しようとします。

 そして、教えている間に、自分でも「そうか、そうだな」と納得していくということが起こります。

 大乗仏教の実践の基本は六波羅蜜です(六波羅蜜についてよりくわしくはこの記事以下を参照してください)。

 これを実践することは、一切の衆生を成長・成熟させることですが、同時に一緒に成長・成熟していくことにもなります。

 利益を与え、害を与えない。報復をしない。つまり、あらゆる方法で、その人の存在を肯定すること、「あなたが生きていることはすばらしいことだ」というメッセージを贈ることこそ、人を教育するための原点です。

 それによって、その人の中に自他を肯定できる善い心の機能が生まれ、自他を否定する悪い心の機能が弱くなり、消えていきます。

 そういう努力を続けることが、人を育てることなのです。

 それに加えて、空しい欲望や怒りや嫉妬や空しさや落ち込みで心が騒ぎ・動揺して悩んでいる人に、禅定をすると心が静かで爽やかになると勧め、心が静かになったところで、世界の本当の姿の学びを伝え、ニヒリストかエゴイストか、さもなければ小市民的な幸福主義者かといった、人間性の低いレベルから脱出する手段を提供する。

 そういうふうにして、「菩薩はよく衆生を教える」、そして「成熟させることができる」のです。

 そしてまだ初歩の菩薩である私たちは、そういうことを人に伝える努力をすることで、同時に自分自身の心にも伝え、染み込ませ(熏習)、全身心的に自分のものにして、自分を成長・成熟させることができるでしょう。

 筆者などは、どちらかというと、させるよりも自分のほうがさせてもらっているという気がしますが、いずれにせよ、六波羅蜜の実践は自分と他者とが共に成熟していくためのきわめて有効な依りどころ・手段・方法だと、改めて思います。

 あきることなく、みんなで一緒に教え・教えられながら、実践を続けていきたいものです。

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