8月は「戦争の記憶」を呼び覚まされる月である。
「兵士達の証言シリーズ」がNHKハイビジョン、BSなどで、放映されている。
80才半ばを過ぎた元兵士達は淡々と、誇張することなく、しかしすさまじい現実を語る。
しかし後数年で、戦場を語る人はいなくなる。戦争のもたらす悲惨の諸々を語れる人はまだ10年ぐらい存在可能だが。
大岡昇平氏の書いた『レイテ戦記』を今少しづつ読んでいるが、この小説はまさに「戦記」そのものだ。
このフィリピンのレイテ島における日米両軍の攻防を、私的な意見をできるだけ排して、日米双方の資料に可能な限りあたって、レイテ戦の全体像を描こうと試みている。
「兵士達の証言」で語る元兵士に戦闘の指揮を執る将校は殆ど登場せず、ヒラの1兵士として、この戦闘がいかなる作戦の元になされているのかも知らず、戦い、傷つき、逃げ惑った体験を語っている。
だが、40才近い年齢で召集され、レイテに赴かねばならなかった大岡氏は、戦後、「あのレイテ島での戦いとはいかなるものだったのか」を問い、労作を物にした。
圧倒的物量の差で、日本軍を追い詰めた米軍だが、レイテの開かれていない山や森や峠の前では、物資を運ぶトラックも戦車も泥にはまり、「命を始めから捨ててかかる」日本軍の奇襲や切り込みに苦戦する。楽勝で日本軍を制圧したわけではない。
米軍の下級兵士もまた、日本軍の兵士同様、将校のメンツのために無益な苦戦を強いられていた。
その結果の敗退、失敗を下部の責任にするのは米軍も同じ。
日本軍といえば、何かといえば精神主義を押し付けられ、戦うための武器・弾薬・食料などの供給も充分でない、というイメージを持っていたが、レイテ戦では米軍と激しく戦っている。
小国日本が、この戦争のためにいかに膨大な戦費を使っていたかを改めて思い起こし、「壮大なムダ使い」=戦争という実態を一般国民はどう感じていたのだろうか、と考えた。
「欲しがりません。勝つまでは」という戦時中のスローガンがあったが、戦争に勝ったら豊かになれると思っていたのだろうか。
敵国の戦闘員のみならず、非戦闘員を犠牲にし、自国の兵士の死の上で成り立つ「豊かさ」でもかまわないというふうにそこまで考えていたとはとても思えないけど。
信濃毎日新聞では、「孤児達の戦後」と題して、児童施設・恵愛学園(松代大本営になるはずだった建物を転用した)の入所者の63年を追った連載記事を掲載した。
戦争が終わって、もう空襲警報におびえる必要もなく、夜も電灯がつけられる。「明るい青空」が戻ったような気分で、「りんごの唄」を口ずさみたくなる人々ばかりではなかった。
空襲や戦死で、保護者を失った戦争孤児たち。まだ一人で生きていく術を持たない子供達にとって、戦争後に本当の苦しみが待っていた。
孤児=浮浪児というイメージでとらえられ、周囲から差別を受け、その後の人生に暗い影をひきずらねばならなかった現実があった。
戦争の犠牲になったことで差別を受けるという理不尽を背負わされたことでは被爆者も同様だ。
戦争の記憶は、たしかに時と共にうすれていくものではある。
しかし、近代以前と違って、戦争の実相を伝える映像も、証言も、書籍もある。
記録までもを忘れないことだ。