連日テレビでの(特にNHK)オリンピックの大騒ぎというか空騒ぎ。
私はニュースで流される報道以外見ていないが、ほかの国はこんなに大騒ぎするんだろうか。
そしてオリンピック直前の佐村河内守とかいう人物の作曲代作騒動。
今のマスメディア、これまた特にNHKはほんとおかしい。
この人物についても少し前からさかんに取り上げられるようになったが、私は特に興味もなかったのでそのドキュメンタリー番組も見ていないが、現代と言う時代は安易に物語を求めすぎる。
その結果が何か怪しいと思いつつ「ばれなきゃいいだろ」と突き進んでしまう。
この場合は本当の作曲者が真実を明かしてしまったのでばれてしまったわけだけど。
作曲者新垣氏が真実を明かした一番の動機は佐村河内氏によって、お金を要求された女の子の存在があったというのだから、佐村河内氏のあきれた人物像が浮かび上がってくる。
私にはこれが今の日本全体の風潮と大いにリンクしたものに思える。
安倍晋三とそれがになう政権のどうしようもない軽薄さ、浅はかさ、愚かさに気づこうとしない(ほんとは気づいているのかもしれないが、直視しようとしない)日本の人々がこんな存在を許してしまっている。
都知事選の怪。
安倍晋三を退陣させる一大チャンスの一つであった東京都知事選。
しかし自公推薦候補に対抗する候補が一本化されず、みすみすその機会を失ってしまった。
宇都宮氏はどうしてそんなに都知事に立候補したかったのか。前回と違って、周囲から推されてというより、むしろフライングぎみに立候補を表明したのはなぜなのか、部外者にはまさに「怪」である。
宇都宮氏周辺では今回は宇都宮氏ではなく落合恵子さんでどうだろうという話があったという。
落合さんは立候補を拒否たのではなく、少し考える時間をくれと言ったという。しかしその少しのスキを突いて宇都宮氏は立候補表明してしまったという。
この宇都宮氏を社共が推した。社民党に現実的機動力は期待できないから宇都宮氏の選挙活動を支えた実働部隊は共産党である。
「脱原発・即廃炉」を訴えた細川元首相の立候補表明は遅れた。もし「脱原発」の候補が落合さんだったら、おそらく細川氏は立候補せず、応援にまわっただろう。
落合さんも無党派、無関心派から見れば「清新な候補」というわけではないかもしれないが、少なくとも宇都宮氏よりは関心と共感を得られたはずだ。政策や実行力のことを言っているのではなく、イメージという意味で。
「選挙」というものは「民意」を問うという仕掛けであって、そのまま「民意」が結果として表れるわけではない。
「民意」が「民意」として表れるためには選ぶ側に充分な政治情報と、それを比較検討する能力がなくてはならない。
しかし日々の生活に追われる、あるいは政治に関心がない、そういう人々にとって選挙で候補者を選別するのは正しい情報に沿ってそうするわけではない。雰囲気で投票することになる。
都知事になった舛添氏は好感を持たれたわけでもないし、信頼感があったわけでもない。彼には自公の組織票があった。大雪で低投票率は彼に有利に働いた。
細川元総理は「脱原発」のために立候補した。福祉もオリンピックも全てはこの問題に道筋をつけなくては何も始らない、始っているように見えるのはまやかしで、砂の上に建物を建てる愚を犯しているのであって、それは崩れ去る運命を免れない。そういう大義のために立候補したと私は理解した。
ただ76歳という年令、政界から遠ざかっていた月日の長さが思った以上にボディーブローとして効いた感がある。
そして平時なら宇都宮氏もまた立派な候補だ。しかし今、極右の安倍晋三の暴走を止めるには真ん中に位置する一番多数を惹きつけなくてはならない時に、やはり迫力に欠ける。
原発推進という極端な政治主張の田母神氏が61万票もの票を集めたことが注目された。その集票の理由は「わかりやすさ」だという。
これは大多数の国民の幸福を願う主張をする政治勢力にとって「課題」だ。政治は言葉だ。まず言葉から始まる。