以下は前章の続きである。
悪用される学者の肩書
学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。
にもかかわらず、学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった。
普段、大学の自治や学問の政治的独立を声高に主張する人々が、自ら学者の名で政治運動にコミットすることの矛盾は、まともな理性の持ち主なら気づかぬはずはない。
ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。
もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。
しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。
でなければ、学問の政治的独立性は守れない。
実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。
賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。
良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。
その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。
『学問とは何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。
そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。
ただし、その主張が特定の政治運動に対して向けられると、逆向きの政治性を帯びてしまうというジレンマに陥る。
残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。
原子力や戦争は絶対悪であるから無条件に否定されねばならないという主張である。
確かに原子力の事故は一度起きるとその被害は甚大であり、放射性廃棄物の問題も深刻である。
ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。
戦争も絶対悪といえるかどうかは非常に疑わしい。
隣国が攻めてきて、抵抗しなければ国民全員が奴隷になるとき、自衛の戦争をすることについては、少なくとも日本以外の国では大多数の人が正しいと判断する。
現在の学問分野は多岐にわたるが、その源流は哲学に行きつく。
だから、米国ではどの専門分野で博士号の学位をとっても、Doctorof Philosophy(哲学博士)になる。
哲学の基本はまず疑うことである。
それは一般向けに書かれてヒットした哲学入門書である『ソフィーの世界』や『これから「正義」の話をしよう』からも読み取ることができる。
その健全な懐疑を根本から否定する学者が少なくないのが今の日本の学界が置かれた現状である。
左翼は理論系に多く 工学系に少ない?
以後の議論では、イデオロギーの区分として「左翼」という言葉を使うが、この言葉には定義の曖昧性があるので、本稿での定義を先に述べておく。
本稿でいう左翼は次の特徴を有する思想を指す。
●表向きは「リベラル」を標榜するが、実際には自分および自ら共感を寄せる集団の自由にのみ関心があり、それ以外の人間の自由には関心がない。自由や人権を弾圧する国家に共感を持つことも多い。
●ある種の万能感を有し、自分は常に正しいと考える傾向が強い。そのため、「ダイバーシティ」を標榜しながら、自らの意見と異なる言論をしばしば封殺する。
●反権力や弱者救済を掲げる一方、自ら権力を得たいという欲求が強く、立身出世に執着する。奉仕の精神に乏しく、社会貢献には関心が薄い。
●現実に起きていることよりも自らの頭の中にある理想を優先させる。自分の思想が現実と合わない場合、自らの考えを修正するのではなく現実を非難する。
このような特徴を持つ思想は、本来「左翼権威主義」と呼ぶべきかもしれない。
しかし、権威主義的でない左翼は残念ながら現在の日本の学界には少ないので、本稿では「左翼」と省略させていただくことにする。
この稿続く。