愛の感動劇!一人の日本人の中国への恩返し
政府レベルでは難しい日中関係ですが、個人のレベルでは、こんないい話がありました。
チャイナネットが報じています。
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2011-12/06/content_24084763.htm
60年以上前、戦争が終わりを告げようとしていた時、日本人開拓団の孤児で、当時3歳だった横山三郎さん(中国名・王毓福)は吉林省長白山の雪の中に遺棄され、死に瀕していた。それを王希順さんが自らの生活苦も顧みず、命を助けて育てた。
戦争で世の中は乱れており、王さんはすべてを捨て、横山さんを抱えて遠い故郷の山東省博山区北崮山村へ戻った。
帰郷後、王さんは横山さんをわが子として育て、汗水流して稼いだお金で横山さんを学校に行かせ、その後、結婚の際も新築の家を建ててやった。
横山さんは努力して学校を卒業後、地元の山間部の小学校で教員になった。改革開放後、その仕事ぶりから都市部へ異動となり、国家幹部となって博山区政協委員連絡室主任、区政協委員を担当、淄博市人大代表にも選出された。
横山さんの仕事が軌道に乗る頃になると、父親もすでに年老い、晩年を安らかに過ごせるよう当初の誓い通り手厚く父親の面倒をみた。
80年代、横山さんは偶然自らの身の上を知り驚いた。心の中で、どうしてずっと本当の事を教えてくれなかったのか父親に不満を抱いたが、落ち着いてみると、自分の浅はかな考えを恥じた。
老人の慈愛と満足に満ちた目を見て、横山さんは父親の傍に残って最後を看取る決心をさらに深める。こうしてまた十数年の時が流れた。十数年間、横山さんは誰にも自分の身の上について語らなかった。感謝の心で老人を世話し、老人の恩に報いた。老人は90歳まで幸せな温かい生活を送り、この世を去った。
父親を見送り、60歳を超えた横山さんも安心して「家に帰る」ことができた。1999年末、横山さんは本籍地の大阪に定住。日本に戻ってからも横山さんは中国の発展と変化に関心を寄せ、中日民間の文化交流に尽くし、数十人の留学生を支援した。
06年清明節前日、横山さん一家は中国に墓参りに戻った。節約して貯めた15万元を母校の裕禄中心学校に寄付。25台のパソコン購入、パソコンルームの設置にあてられ、山奥の子どもたちが外の世界に目を向けられるようにした。
08年の四川大地震をテレビで知ると、すぐに友人に電話して義捐金について訊ね、5000元を送った。
横山さんは70歳になったが、中国という彼が育った土地を忘れることはない。彼はできうる限りの事をしてきたが、それでもいつもしみじみとこう繰り返す。「私の養父、中国の故郷、故郷の人々が私に第二の命を与えてくれた。私のしていることはその恩に比べればたわいもないことだ。養父や中国の故郷への恩返しにすぎない」と。
政府レベルでは難しい日中関係ですが、個人のレベルでは、こんないい話がありました。
チャイナネットが報じています。
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2011-12/06/content_24084763.htm
60年以上前、戦争が終わりを告げようとしていた時、日本人開拓団の孤児で、当時3歳だった横山三郎さん(中国名・王毓福)は吉林省長白山の雪の中に遺棄され、死に瀕していた。それを王希順さんが自らの生活苦も顧みず、命を助けて育てた。
戦争で世の中は乱れており、王さんはすべてを捨て、横山さんを抱えて遠い故郷の山東省博山区北崮山村へ戻った。
帰郷後、王さんは横山さんをわが子として育て、汗水流して稼いだお金で横山さんを学校に行かせ、その後、結婚の際も新築の家を建ててやった。
横山さんは努力して学校を卒業後、地元の山間部の小学校で教員になった。改革開放後、その仕事ぶりから都市部へ異動となり、国家幹部となって博山区政協委員連絡室主任、区政協委員を担当、淄博市人大代表にも選出された。
横山さんの仕事が軌道に乗る頃になると、父親もすでに年老い、晩年を安らかに過ごせるよう当初の誓い通り手厚く父親の面倒をみた。
80年代、横山さんは偶然自らの身の上を知り驚いた。心の中で、どうしてずっと本当の事を教えてくれなかったのか父親に不満を抱いたが、落ち着いてみると、自分の浅はかな考えを恥じた。
老人の慈愛と満足に満ちた目を見て、横山さんは父親の傍に残って最後を看取る決心をさらに深める。こうしてまた十数年の時が流れた。十数年間、横山さんは誰にも自分の身の上について語らなかった。感謝の心で老人を世話し、老人の恩に報いた。老人は90歳まで幸せな温かい生活を送り、この世を去った。
父親を見送り、60歳を超えた横山さんも安心して「家に帰る」ことができた。1999年末、横山さんは本籍地の大阪に定住。日本に戻ってからも横山さんは中国の発展と変化に関心を寄せ、中日民間の文化交流に尽くし、数十人の留学生を支援した。
06年清明節前日、横山さん一家は中国に墓参りに戻った。節約して貯めた15万元を母校の裕禄中心学校に寄付。25台のパソコン購入、パソコンルームの設置にあてられ、山奥の子どもたちが外の世界に目を向けられるようにした。
08年の四川大地震をテレビで知ると、すぐに友人に電話して義捐金について訊ね、5000元を送った。
横山さんは70歳になったが、中国という彼が育った土地を忘れることはない。彼はできうる限りの事をしてきたが、それでもいつもしみじみとこう繰り返す。「私の養父、中国の故郷、故郷の人々が私に第二の命を与えてくれた。私のしていることはその恩に比べればたわいもないことだ。養父や中国の故郷への恩返しにすぎない」と。