(3)人 格
家康の面倒見のよさは特筆ものです。
東軍についた武将、つきたかった武将の多くが、どこかで家康の世話になっているかもしれません。
たとえば、秀次事件で連座を免れたのは家康の力が大きかったと思われます。
三成暗殺事件でも家康が仲裁に入っています。
宇喜多秀家のお家騒動も、家康が仲裁に入り、家康に多くの武将が流れました。 小早川秀秋の降格を救ったのも家康でした。
まだまだ事例はあります。
では、このような人格はいつ形成されたのでしょうか?
私は、これも人質時代だと考えています。
定説では、人質時代は人質の悲哀を味わったとか、陰湿ないじめに遭ったとも言われていますが、それだけではなかったと思います。
駿府での人質時代には、臨済寺には祖母(母・於大の母)である源応尼(華陽院)が、竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたりました。
そこでは、人のとるべき道について教えられました。
家康は、人質の子をとても大事にしたという記録も残っています。
これも、自らの人生を映しての事でしょう。
戦国武将の記録は、敵には悪く書かれ、味方にはよく書かれます。これは当然の事です。
その行動から客観的に見ても、信長や秀吉とは性格もずいぶん異なるようです。
「人の世にあるは重き荷を負って遠き道を行くが如し。急ぐべからず。」
家康の面倒見のよさは特筆ものです。
東軍についた武将、つきたかった武将の多くが、どこかで家康の世話になっているかもしれません。
たとえば、秀次事件で連座を免れたのは家康の力が大きかったと思われます。
三成暗殺事件でも家康が仲裁に入っています。
宇喜多秀家のお家騒動も、家康が仲裁に入り、家康に多くの武将が流れました。 小早川秀秋の降格を救ったのも家康でした。
まだまだ事例はあります。
では、このような人格はいつ形成されたのでしょうか?
私は、これも人質時代だと考えています。
定説では、人質時代は人質の悲哀を味わったとか、陰湿ないじめに遭ったとも言われていますが、それだけではなかったと思います。
駿府での人質時代には、臨済寺には祖母(母・於大の母)である源応尼(華陽院)が、竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたりました。
そこでは、人のとるべき道について教えられました。
家康は、人質の子をとても大事にしたという記録も残っています。
これも、自らの人生を映しての事でしょう。
戦国武将の記録は、敵には悪く書かれ、味方にはよく書かれます。これは当然の事です。
その行動から客観的に見ても、信長や秀吉とは性格もずいぶん異なるようです。
「人の世にあるは重き荷を負って遠き道を行くが如し。急ぐべからず。」